第2話 夜明けの公園



 紗智が突然目の前から消えた翌日。

 早朝の公園に、優月はいた。

 規則正しい生活を送っていたおかげで、早い時間に目が覚めてしまった。スマートフォンで時間を確認すれば、まだ夜明け前の五時を少し過ぎたぐらい。

 早朝の散歩なんかもいいかもしれない、と思い、自宅近くの公園まで足を伸ばした。

 当たり前だが人っ子一人いない。ごくたまにジョギングをしているお姉さんとすれ違うぐらいで、ほとんど人けがない状態だ。


「んー朝の風って冷たくて気持ちいいなあ……」


 大きく背伸びをし、肺に新鮮な空気を取り込みながら、優月は公園の中を探索する。背後の方で、ぎぃぃっとブランコが鳴る音がした。振り返ると、誰かがブランコに乗っているのが見えた。

 純白のワンピース、華奢で儚げな雰囲気が漂う背中に、零れ落ちる黒髪が朝露に濡れたように煌めいている。


「あれ……葛籠……さん……?」


  顔が見える位置まで移動して、少し近づいてみると、見覚えのある顔だ。白い肌に睫が影を落としている。


 綺麗な横顔だな……


 見惚れてしまうほど、あまりにも美しすぎる。優月は胸の高鳴りを抑えながら、紗智に近づいていく。

 ブランコは悲しげな音色を鳴らしながら、揺れ動く。


「あ……あの……つ、葛籠さん……」

「ん? あれ、原田君!」


 振り向いたの紗智は顔を綻ばせ、そこに一輪の花が咲いたように笑顔を浮かべた。白かった頬に赤みが差し、ほんのり薄ピンク色に染まるのが、なんとも愛らしい。

 にっこりと笑顔を浮かべて、彼女は勢いよくブランコから飛び降りて、優月の前に両足を揃えてぴしっと立つ。

 流石は運動部、運動神経はいいらしい。

 よく見ると、紗智の服装は昨日図書館で見たのと同じように見えるのは気のせいだろうか。指摘していいか悩むが、きっと女の子は似たような服をたくさん持っているのだろうと勝手に納得することにした。


「原田君の家って、この辺なの?」

「あ、うん。この公園から歩いて五分ぐらいのとこ」

「近いんだね!」

「うん……えっと、葛籠さんは?」

「私? ここから三十分ぐらいのとこかな」

「そんなに遠いのに、ここまで来たの?」

「うん」


 にこにこと楽しげに話す紗智に、優月は内心ドキドキが止まらなかった。クラスメイトだが、優月は紗智に特別な気持ちを抱いている。彼女が髪を掻き揚げるたびに甘い香りが鼻孔をくすぐる。


「ねえ明日も来ていい?」

「え、あ、うん。僕も明日も来ようと思ってるし」


 やった、と嬉しそうにはしゃぎ回る紗智。長いスカートを翻し、普段クラスで見る元気な紗智そのもののようだ。


「じゃあ私、帰るね」

「え」


 じゃあね、彼女は優月に背を向け、帰ろうとする。遠い空の向こうに光が差し込み、夜が明け、朝が訪れようとしている。その光に向かって紗智は歩き出す。まるで、あの光に呼び寄せられてそのまま消えてしまうんではないかという不安が胸の奥に現れてしまった。


 もう少し話したい。この夏休みの唯一といってもいい思い出をせめて彼女と作りたい。


 優月は慌てて紗智の腕を取った。瞬間、背中にぞわりと冷たいものが走る。氷のつららを背中に入れられたような、冷え冷えとする感覚。

 紗智の腕は、ひどく冷え切っていたからだ。まるで、死人の腕を掴んでいるような、それほど冷たいのだ。

 いくら夏とはいえ、朝はまだ寒いのだ。おそらく長い時間ブランコに乗っていたから冷えてしまったのだろう、きっとそうだ。そうじゃないと、おかしい。


 腕を掴んだまま、優月は立ち尽くしてしまう。どうしていいかわからない。


「……離して」


 頭上から紗智の声がする。目線をそっとあげると、紗智は眉根を寄せ、なんとも形容しがたい表情を浮かべていた。目尻に薄らと涙さえ浮かべている。

 あわてて優月は手を離すと、紗智は苦虫を噛み潰した表情を浮かべて、ぱっと背中を向けてしまった。


「あ! つ、葛籠さ……」


 名前を呼ぼうとした時、紗智の姿はもうそこにはいなかった。朝日が昇ったのと引き換えのように、紗智はそこから消えてしまった。

 一人残された優月はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。掌に目線を移すと、そこはまだ微かに冷たさを残していた。






  




 結局次の日、紗智は来なかった。昨日よりも少し早めに家を出て公園に向かったが、紗智がいた気配もなければ、来る気配もない。昨日あんな別れ方をしたから怒っているのかもしれない。謝りたいが、紗智の家を知らない優月にはどうすることもできなかった。夏休みが明けるまで、紗智には会えない。


「……どうすればいいんだよ」


 昨日の自分が腹立たしい。いくら話したいからってあんな強引に腕を掴むことはなかった。まして、腕を掴んだまま何も言えず立ち尽くしてしまうとは。

 会いたい、会って謝りたい。





 その晩、優月は夢を見た。

 真っ暗な、どこまでも続く道が永遠と続くかのような、そんな路を優月は歩いていた。手を回しても何にも触れれず、ただっぴろい空間に一人、ぽつんといる。

 夢のはずなのになぜか疲労感も感じ始め、優月はその場にしゃがみ込んでしまった。もう一歩も歩けない。

 誰もいない空間で一人心細くしていると、急に目の前に白い光が射した気がした。ぱっと顔をあげると、少し先の部分だけ薄らと白くぼやけて見える。先ほどまでそこも真っ暗だったのに。

 疲れ切って棒のようになった足を無理やり起こして、白い場所まで歩いてみると、そこから先は白しかない空間だった。

 さっきが闇だとたとえるなら、こちらは光とでも言おうか。

 闇に慣れた瞳は、急激な白い光に慣れるのに数秒の時間を要するも、すぐになれた。見渡す限りの白。何にも汚されていない、澄み切った美しさ。


「……誰か、いる……?」


 光の奥に誰かの気配を感じた。奥の方が少し強い白みがかっていて、人影のようにも見える。白に映える、黒のコントラスト。これまで何度恋い焦がれたかわからない。そこにいたのは、紗智だった。

 朝方見たまんまの姿でそこに立ち尽くす紗智は、焦点の合っていない双眸を上へ向けている。優月の存在には気づいていないらしい。


「葛籠さん!」


 大声をあげて傍に行こうとするも、なぜか近づけない。それどころかどんどん離れていく。手を伸ばす、必死にもがいて紗智の手を掴もうとするも、手は離れていくばかり。くうを切り、力なく手が垂れさがる。

 途端に風が舞った。何もない空間のはずなのに、いきなり舞い込んだ風は、紗智の体を包み込んだ。まるで、このまま紗智を空へと連れ出していこうとしているみたいに、纏わりつく。


「――! ――っ――!!」


 声を絞り出しても、届かない。空へ手を伸ばしても、掴みきれない。名前を呼んでも風に掠め取られたかみたいに届きはしない。


 永遠の別れのような、嫌な夢だった。








 一週間後。長いようで短かった夏休みがついに終わった。

 あれから紗智に会える方法はないかと探したが、仲のいい友達は捕まらず、女子に聞くのも憚られる。

 何もせず、終わるのを待った。


「ゆーづき!」


 多くの生徒たちが行きかう道中、優月の背後から思いっきりタックルをかますようにして現れたのは陽人だ。思わずよろけてしまいそうになるが、寸でのところで踏ん張れた。

 寝込んでいたせいか、筋力が落ちたのかもしれない。


「うわっ! は、陽人……びっくりさせるなよ」

「一か月半ぶり? もっとか?」

「さあ……」

「ん? どした。元気ないな」


 流石は友達といったところか、優月のわずかな変化に気づけるのは陽人しかいないのかもしれない。


「夏休みの大半を寝て過ごしたから元気ねえーんだな」

「まあ……」


 歯切れの悪い返事しか返せない。確かにそれも理由の一つだが、一番の理由は紗智のことだ。会えない苛立たしさを表に出ないようにしているが、いかんせん、出てしまうのは仕方ない。

 三日ほど前に見たあの夢。あれはいったいなにを案じているのだろう。

 悟られないように、優月は笑顔を浮かべる。


「何もないって。せっかくの夏休みを寝て過ごして最悪なだけだって」

「そうか? ならいいけどさ」


 肩に回していた腕を抜いて、陽人は優月の隣を歩く。周りには同じ学校の生徒たちばかり。陽人にばれないように、優月は周りをそっと見渡すも、紗智の姿は見えない。

 時折、似た容姿の女子生徒を見かけるが、すぐに紗智ではないとわかり、落胆してしまう。学校の門をくぐるまで、ずっとそれを繰り返していた。


 

 




 

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