三日の間に起きたことは奇跡か幻影か

舞原桜水

第1話 灼熱太陽



 夏休み。それは学生にとって一大イベントといっても過言でないほど嬉しいものだ。

 それは原田優月はらだゆづきも、もれなくその一人に当てはまる。

 今年の夏はどこへ行こう、誰と遊ぼう、宿題は嫌だな。あれこれ考えて、友達といろいろ計画もした。

 なのに、彼は夏風邪をひいてしまった。それも夏休みに入る直前なのだから、運が悪いとしか言いようがない。

 しかも結構厄介なやつで、薬は効かないし、体は痛い。熱は引いても、咳が中々治らず、暑いはずなのに悪寒さえ感じてしまうのだから、よほど酷いのだろう。

 おかげで夏休みの大半を風邪に奪われてしまい、残り一週間を残してしまった。


 







「……最悪だ」


 開口一番に、優月はベッドに寝そべったまま、天井に向かって呟いた。まさに最悪。悪夢なら覚めてくれと思いたいほど、辛かった。

 ようやく熱も落ち着き、咳もほとんどなくなった。体の気怠さは多少残ってはいるが、普通に動く分には全く気にならないほどまで回復した。

 エアコンの効いた自室にて、ベッドに寝そべったままスマートフォンをいじる。一通のメールを受信していることに気づいて、指でタップをし、メールを開けばメールの発信者は小柳陽人こやなぎはるとだ。

 陽人とは小学生のころからの友達で、高校も同じところを受験したから、同じ高校だし、クラスも一緒だ。

 高校二年生になった優月は、恐らく高校生活最後と思わる夏休みを満喫したいと考えていた。来年は受験生なのだから、今年が実質最後みたいなもので、今のうちに遊び倒したいと思っていた。

 それを陽人に言ったら『じゃあ今年は旅行にでも行こうぜ!』と提案してくれたのだ。陽人は親戚がペンションを経営しているらしく、三泊四日の間、そこを借りようと言ってくれたのだ。

 ペンションという大人の響きに強く惹かれて、夏休みに入る前から決まった旅行にいまだかと待ちわびていたのに。よりによって夏風邪を引くとはだれが予想しただろう。


 陽人のメールには『こっちはすげえ楽しいぞ!』という文章と、一緒に旅行に行った友達との写真が数枚添えてある。

 満面の笑みでペンション傍の河原でバーベーキューを楽しむ友達の姿に、軽くいら立ちを覚えてしまう。本当なら自分もそこにいたはずなのに。何度悔やんでも、時間を戻すことなんてできるわけないのに、優月は食い入るように画像を見入る。


『いいですねー僕も行きたかったよ』


 多少の皮肉を混ぜたかったが、根が素直な優月にそんなことはできない。結局正直に行きたかったという心情をメールにて吐露するしかできないのだ。

 メールを返信して、すぐにメールの受信を告げるメロディーが部屋に響き渡る。開けば、また陽人からだ。


『しっかり体調治せよ! 土産買っていくからよ』


 そう返答されたメールに、優月は苦笑してしまう。旅行に行く直前まで、陽人は優月のことを気遣って旅行を中止しようか? などと言ってくれた。自分のせいで他の友達に我慢を強いるのはどうかと思い、それは丁寧に断ったのだが、結局こうして陽人に気を遣わせてしまうのだ。


『楽しみにしてる』


 そこでメールは途切れた。



 再び退屈な時間がやってくる。スマートフォンで時間を確認すれば、正午を少し過ぎたころだった。

 今、家には優月しかいない。弟の優季ゆうきは学校の友達とプールに行っているし、母親は夕方まで近所のスーパーでパートだ。

 遊べる友達も夏期講習だの、親の実家に帰ったりしてほとんどいない。外は夏真っ盛りで、ひとたび外へ出れば暑さに倒れかねない。ずっと家に引きこもっていた優月には少々辛い。

 だからといって、家に籠っていては退屈な時間を無意味に浪費しかしない。夏休みの宿題は、陽人が終業式の日に届けてくれた。それらもあらかた片付けてしまった。休み明けの学校の予習をしようにも、自分が休んでいる間にどこまで進んだのかわからないので下手に手を出すことはためらわれる。

 黒い双眸で部屋中を見渡す。ふと、勉強机に目が止まったと思えば、おもむろにベッドから立ちあがる。勉強机には数冊の本で、どれも市内の図書館から借りたものだ。そういえば夏風邪をひく直前に借りたような。


「……図書館いくか」


 貸し出し期間はとうに過ぎている。本当に休みに入ってすぐに返す予定だったが、残念ながら返すことは叶わず、今の今まで優月の机の上に忘れられていたのだ。

 どうせ暇なのだから、これを返しがてら新しい本を借りてこよう。



 七分上のパンツに、白いシャツを着て、上から藍色のパーカーを羽織って熱中症防止の帽子を被る。玄関にやってくれば、ドアを開ける前からわかる。外から感じる、恐ろしいほどの熱気。

 行くのをやめようかと思ったが、本は返さねばならない。意を決して扉を開けると、予想通り、うだるほどの暑さが優月に襲いかかってきた。


「うえ……あつい……」


 頭上に降り注ぐ眩しいほどの太陽。家の中との温度差があまりにも激しく、少しめまいを感じたが、それもすぐに落ち着いた。

 玄関に置きっぱなしの自転車の鍵を持って、家の鍵を閉める。

 愛用の自転車の鍵を開けて、サドルに座れば焼けるんじゃないというほど熱されている。


「あっつ! サドルやばっ」



 

 市内の図書館まで自転車で二十分。途中木陰で休みを取りながら、いつもの倍の時間をかけて図書館まで辿りついた。

 涼しい木々に囲まれた自転車置き場に自転車を置き、空を見上げた。木々の隙間から零れるように見える灼熱の太陽。

 どうして太陽はここまで地球を熱くするのだろうか。自分ら人間が地球温暖化を作った要因ではあるが、それにしても暑すぎる。今年の夏は冷夏になるでしょうといっていたお天気おねえさんのあの言葉は嘘だったんだな、と思いながら、優月は図書館へ向かう。


 図書館の中はまさに天国と言っていいほど涼しい。人の数が多いからか、設定温度が高めなのか、自宅での温度より高めに感じる。それでも、外に比べれば断然こちらのほうがいい。

 優月は返却カウンターに本を返して、一息つこうと空いている席を探した。夏休みということもあって、読書用机の大半は受験生が占領していた。

 参考書片手にノートと睨めっこするもの。音楽を聴きながら、余裕綽々といった感じに課題をこなすもの。自分の周りに大量の本を置いて輪を作るようにしながら、輪の中心で勉強に勤しむものと様々だ。

 なるべく邪魔にならないように端の方を探すも、ない。

 見つからないわけじゃない。席はあるにはある。だが、人の座っていない席には持ち主のいない鞄がぽつりぽつりと置かれている。席取りのつもりなんだろう。この図書館では席取りは原則禁止されているが、それを守るやつはまずいない。鞄を退けて座ろうなんて度胸も、優月にはない。

 しばらく図書館内を彷徨って、ようやく空いている席を見つけた。

 そこは、窓際の席だ。机はなく、椅子だけが置かれており、正直座るのは遠慮したい席だ。

 窓際ということは、外の暑さをダイレクトに受けるということだ。おまけに、そこはエアコンの効きが悪い。微妙に当たらなかったり、当たっても生ぬるかったりと中々悲惨なのだ。

 けどここ以外に席はない。

 本を返すという義理は果たしたのだから、図書館に留まる理由はないはず。しかし、今図書館を出るということはあの灼熱地獄に戻るということだ。

 それだけは絶対に避けたい。家に帰れば涼しいエアコンが待っているが、それまでの道のりを考えると辟易してしまう。

 他の理由も思いつかないまま、優月はその席に座った。




 近くの本棚から適当に数冊とって、椅子へと戻る。窓に近づかなければそこまで暑くないので、なるべく近寄らないようにして読書をしよう。

 生ぬるい風が優月の頬を撫で上げる。しばらくの間、読書に没頭していた優月はこみかめの間を指で軽く揉んで、首も軽く回す。ずっと下を向いていたせいで首が痛い。

 顔をあげて目の疲れを癒したく外を見る。緑の木々が風に揺れて、涼しそうだ。大きな木々が立ち並んでいるので、木陰のようなものができている。

 あそこで昼寝したら気持ちいいんだろうな。

 気持ちよさそうだが、地面はアスファルトだから、涼む前に背中が焼かれそうだ。

 そこまで考えると、ふと、視界に緑以外のものが映った。


 足首を覆うんじゃないかというほどの白いロングスカートに、少しヒールの高そうなサンダル。顔は後ろを向いているので見えない。背中に零れ落ちる黒髪は艶やかで、風に揺らぎ、舞い上がるたびにきらりと光って見える。

 その後ろ姿に、優月は見覚えがあった。今どきの女性にしては珍しく清楚な感じを持たせる黒髪は、あの子を彷彿させた。

 食い入るように窓越しに見ていると、女性はゆっくりとこちらに振り向いた。

 

 あれは、葛籠紗智つづらさち……?


 左目の下にある泣き黒子ほくろと背中の半分ほどまで伸びた黒髪が印象的な、優月のクラスメイトの紗智だ。

 確か彼女はテニス部に所属しているはず。夏休みの間も部活は行われており、時間的にはまだ部活動の真っ最中なはずだ。そんな彼女がなぜここにいるのだろうか。

 呆然と見ていると、こちらの視線に気づいたのか、紗智は笑みを浮かべて手を振ってきた。穏やかな、暑いということを知らないといった涼やかな表情。

 優月は手を振り返そうかと思ったが、それよりはあちらに行って話したいという気持ちのが強く動く。

 本を棚に戻そうと立ち上がった瞬間、目を離した一瞬のすきに、彼女の姿はそこにはなかった。


「……え……?」


 立ち上がった瞬間、ばさばさと膝の上に乗せていた本が床に零れ落ちていった。静謐な空間に突然訪れた音に、周りの人々は訝しげに優月を見入る。あからさまに咳払いをしたり、邪魔するなという視線を送ってきたりと、様々な負の感情が一斉に押し寄せてくる。

 居たたまれなくなった優月は、急いで本を戻し、早々に図書館を後にした。



 紗智がいたであろう場所までやってきたが、そこには当然ながら誰もいない。むしろ、誰かがいた形跡すらない。


「見間違えかな……」


 確かに見たはずの紗智の姿を見つけ出すことは、その日はできなかった。





 

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