第663話 『ピアノソナタ第32番ハ短調作品111』 ベートーベン
ベートーベン先生のピアノソナタの終着駅。
1822年1月13日に完成。52歳の時期であります。
現在の52歳といえば、まだ、働きざかりですが、当時は、そろそろ、お年頃。
考えてみれば、やましんが社会に出たころだって、55歳で定年だったような世の中ですからね。
それにしても、『この作品は、深淵だあ』、と、思いながら、この、歳まで来てしまいました。
いやあ、まったく、進歩してないのではないか?
困ったもんだ。
作品111が、2楽章形式なのは、なぜか?
トーマス・マンさまも、たしか、小説のなかで、そう語りかけていたような。
違ったら、すみません。
しかし、2楽章形式が、とりわけ特殊なわけでもなく、27番のソナタだって、24番だって、そうですよね。
では、この作品だけは、特殊なのか?
さて、そこは、わからないなあ。
ベートーベン先生、最後のピアノソナタであることをもって、とりわけの意味合いを見いだすのか?
ベートーベン先生は、このあと、いよいよ、『交響曲第9番』と、『ミサ・ソレムニス』の公開に向けて、舵をとります。
しかし、ウィーンは、あまり、ベートーベン先生を大切にしない?
少なくとも、当のベートーベン先生は、そう、思ったのか、1824年には、ベルリンの王立劇場に対して、このふたつの初演が可能か、と、問い合わせを入れました。
これを、知った、ウィーン側はびっくりし、なんとか、ウィーンで初演してほしいと、請願書を送ります。
その、直前ころの作品。
たしかに、このソナタは、難解です。
いやあ、聞きにくくはないですよ。
第1楽章の印象的なモティーフ、第9交響曲の第3楽章に匹敵するような、静かな、美しい、深あい、テーマを持つ第2楽章。
一方で、旋律というよりは、断片的なイメージがする第1楽章の主題。
いったい、どこに行こうとするのか?
でも、断片的なものが、積み上がって、ぐんぐん、天に上って行くような姿は、気高い龍さんが、遥かな空に、かけ上がってゆくようで、大変に荘厳でもあります。
でも、最後は、なぞのように消えて、第2楽章に続きます。
第2楽章の、変奏は、幅がスッゴく広いです。
宗教的なまでに崇高なものから、ジャズのようなリズムも登場。
もっとも、この時期は、まだ、ジャズは確立していません。
19世紀の末ごろからですから、だいぶん先です。
だから、これは、ジャズではないですね。
ついには、手が届かない、宇宙のはるか彼方にまで到達して、消えていってしまいます。
音楽的には、別ものですが、『ミサ・ソレムニス』も、そういう、おわりかたです。
一方で、『第9交響曲』は、たいへん、大衆的なところがあります。
このソナタは、一曲で、わりあい、分かりやすいところから、非常に深淵な場所にまで到達しているところに、つまり、第9交響曲と、ミサ・ソレムニスの両方の要素を兼ね備えたようなところに、ベートーベン先生の意図があると見たほうが、正しいのかもしれません。
それを、はるかに、深く掘り下げたのが、その、2曲である、と。
大バッハ先生には、人類が、神の崇高な世界に、到達する、というようなお考えは、なかったでしょうけれど、ベートーベン先生は、必ずしも、そうではなかったんではないかしら。
つまり、人類の可能性を、限りなく追求していたのだろう、と、思いますのです。はい。
そこを、追求していたら、2楽章に収まった。
これ以上の楽章を用意する必要性が、もはや、なかった、と、いうことではないのかしら。
それは、はるか後の、シベリウス先生の、『交響曲第7番』に、共通するようなことではないかしら。
いや、あほのやましんが、そんなこと、言って良いわけがない。
職場の偉いかたからも、『悪い頭で、きみが考えたってしかたがない。』
あほの、君は、ただ、決められたようにやりなさい。
とのことで、ありました。はい。
・・・・・・・うつ ✴️ ✨ うつ・・・・・・・・
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