第117話 『ドイツ・レクイエム』 ブラームス
ブラムス先生が、ルターさまによる聖書のドイツ語訳のなかから任意に選んだテキストによって書かれた作品で、カトリックの典礼文は使ってない、巨大な演奏会用の『レクイエム』です。
ブラムス先生はプロテスタント系のおうちの御出身だそうですが、必ずしも信心深かったという感じではなく、あまり教会にお出かけすることもなかったとのことですから、むしろブラムス先生の個人的な思いが強く込められたものと見た方がよさそうです。
この曲中、『イエス』『キリスト』ということばは、1回も出てこない、と言われて日本語訳を見て見れば、たしかに、呼び掛けの言葉は常に『主ヨ Herr』ばかりです。
そのせいかどうかはともかくも、異教徒にも大変読みやすく、また、生きておられた年代が、ぼくたちに近いせいもあるのか、選ばれたテキスト自体が、現代人にとっても、わりと身近な感じもするものだ、という感じがします。
冒頭は、『苦しみ悲しむものは幸いである。その人は、慰めを受けられるからである・・・・・」という、大概の人が聞いたことがある有名な言葉から始まります。(マタイによる福音書第5章・・・『山上の垂訓』という呼び方で、たしか高校時代の教科書にも出ていたような気がします・・・)
第2曲は『ひとはみな、草のようである、その栄華はすべて草の花に似ている・・・』と歌います。(ペテロによる福音書)
宗教上の解釈は、やましんごときにはわかりませんが、たしかに言葉だけからしたら、平家物語で語られる『おごれるもの久しからず・・・」と共通した意識も感じます。
まあ人間は、自分に興味があったり都合の良いセリフを都合よく利用する性質があり、会話の中で、ことわざや古の有名人のことば、古い書物の有名な文句をよく借用するものです。
ときに、正反対の意味になってしまうなんてこともあるようです。
『民の声は神の声なり』
と、シャーロック・ホームズさんも言っていましたし、なんだか民主主義の根幹のような言葉でもありますが、もともとは『そう考えちゃだめですよ!』と、王様を側近さんが諫めたことばから出たらしい、とか。
しかし、それでも、この曲のテキストは、音楽と相まって、ときに、やましんを泣かせるのです。
最後にはこう歌います。『死者たちは、労苦からは解放される・・・・その行いは後に続くのだから。』(ヨハネの黙示録)
これは、どういう意味なのか、いささか考えるところではありますが。
悪役などが『もう、楽にしてやるぜ!』
とか言って、拳銃や刀を突き付ける場面を、いったいどのくらい映画などで見たことか、なのですが、そういう意味では、おそらく、ないと思います。
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