第116話 『レクイエム』 モーツアルト

 おそらくですけれど、現在巷にある『レクイエム』と呼ばれる作品中、もっとも有名な音楽なのです。


 にもかかわらず、これもまた広く知られるように、未完成なまま、モー先生は亡くなってしまったのです。


 残された部分のあまりの素晴らしさがあいまって、やや怪談めいた伝説を生みました。


 地獄の使者が、作曲を依頼に来た・・・とか。


 現在では、この依頼主がいったい誰だったのかとかも、ちゃんと分かってしまっていて、地獄や天国からの作曲依頼ではなかったことは確かなんだそうです。


 ただ、モー先生の死後、奥様の立場からしたら、完成させて依頼主に届けなければ、前金も返さないといけない、なんていう深刻な事態もありえたので、なんとか完成させようと努力したのだろうことは、分かる気がします。


 しかし、この作業については、いまでもはっきりしない点は残っているんだとか。


 当時、最終的な補作をしたのは、このことで有名となった、お弟子さんのジュスマイヤーさまということでありますが、その後20世紀には、この曲の補作ブームがありました。


 はたして、ジュスマイヤーさまが、モー先生からの指示を具体的に持っていたのか、持っていたなら、どのくらい持っていたのか。


 モー先生が書き残していたアーメン・フーガは、なぜ使われなかったのか・・・


 奥さんはそれらを、ちゃんと知っていたのか?


 知っていたなら、なぜ先に、ジュスマイヤー様ではなくて、アイブラー様に完成を依頼したのか?


 アイブラー様は、結局、中途で投げてしまったらしいので、なんだかよくわかりません。

 

 このあたりは、専門家の皆様が、日夜解明に努めておられるわけでしょう。(やましん最近世間に疎いので、もう解明できてたりするかも・・・)


 ただ、『うつうつ』としましては、神はどんな傑作でも、完成を待たないのだ、と言うことが、まず衝撃的事実だということ。


 それから、癒し効果として考えた場合、最後まできちんと聴くのが正しいのか、それとも、やはり、補作部分は、いまいち効果が薄いのか・・・・というあたりが気になるのですよね。


 やましんとしては、世間様から、もう、嫌われたくもないので、いささか小声ではありますが・・・・・、まず、8小節目でモー先生が息絶えて、中断してしまった『ラクリモサ』は、その8小節目で聴くのをやめる理由はないということ。これは確かだと思います。


 あたかも、モー先生ご自身が書いたかのような、感動的な終結になっていて、もしこれがジュスマイヤーさま、のみの手で行われたのなら、やはりジュスマイヤーさまには、優れた才能があったんだと思います。


 演奏会であれば、止めるならここで終わるのが、常道でしょう。


 しかし、聴く方なら、ここで聴くのを止めるのは、おしいです。


 そのあとの、『ドミネ・イエズ』と『ホスティアス』には、モー先生の自筆が入っていて、聴きごたえがある傑作だからです。


 でも、この先が、ちょと問題ではあります。


 よい音楽ではあるのですが、モー先生の書いた部分があまりにすごすぎて、いくらか、大人しくなってしまうのは、仕方がないと思います。


 しかし、一番最後を、冒頭のモー先生の真筆を再び再利用して終わらせたのは、ジュスマイヤー様の真心なんでしょう。


 後世の人たちに、モー先生、ご本人を知るジュスマイヤー様が、その真心を伝えてくれているのだと思います。(ジュスマイヤー版以外のCDもありますからご注意を)


 ということから、やましんは、最後まで聴くのが通例であります。


 まあ、実際、暇ですからね。


 




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