第10話 普通の恋

大学を卒業してから今日まで、ずっと彼氏はいない。

というか、いい感じになった人すらいない。

借金の返済が終わるまでは恋なんてしている余裕はないし、そもそも仕事が仕事。

きっと、誰にも理解されない。

理解されるとすれば・・・頭の中で店長やお店の男性スタッフの顔を思い浮かべたが、いやいやないない。

私はこの世界には飛び込んだけれど、染まるつもりはない。

目的を果たしたら・・・また病院で働けるかな。

普通に恋して結婚して、子供を生んで。

そういう普通の人生に戻れるのかな?

返済への目処がたってきた今、こんなことを考えるようになった。


バスに揺られながら地下鉄に向かう。

実は最近、仕事先へ向かう地下鉄でちょっと楽しみにしていることがある。

それは・・・ある人に会うこと。

今年に入ってからシフトの時間を少し変えて、早い時間から出勤するようになったんだけど、週に一度か二度、一緒に乗り合わせる人がいる。

私より少し年上かな?

結構かっこよくて、清潔感があって。

いい意味で“普通”そうな人で・・・気になる人。

きっとその人は私のことなんか気にも留めていない。

いつも音楽を聴きながら寝ているし。

その人は私と同じ駅で降りて、私と同じ方向に進んでいく。

いつも私はそれにこっそりついていくように・・・後ろを歩いている。

私が働くお店から結構近い、飲食店が何店か入っているビルに入っていくようだから、きっとそのビルに入っているお店で働いている人。

別にこれ以上近づきたいとか、そういうことじゃない。

でも、もし私が普通の恋をすることができるのなら・・・こんな人がいいな。

そう思ったら、なんだか意識してしまうようになった。


平日はすぐに電車が満員になってしまうから、その人の姿は見えなくなってしまう。

でも、土日だとずっとその人のことを見ていられる。

デートをするならどんなところがいいかな。

今見たい映画、この人も一緒に見に行ってくれるかな。

朝・・・隣同士で話をしながら行けないかな。

そんなことを考えるだけで幸せな気持ちになれた。

でも、それはありえない話。

私の仕事を知ったら・・・きっと軽蔑される。

どんなに近づけたとしても、離れていってしまう。

隣同士で出勤?できるはずがない。

だから、この距離でいい。

この距離で、自分の中でだけ話をして・・・それだけで満足。


地下鉄に向かう階段を降りていると、発車のベルが響いた。

次のでいいかと思っていたら、その彼の姿が発車する地下鉄の車内に見えた。

気づいたら小走りで階段を下りていた。

ギリギリセーフ。

「運転手さんごめんなさい!」と心の中で謝る。

上がってしまった息を少し整え、席に座る。

目の前には彼が座っている。

駆け込み乗車したことに絶対気づいてるよなぁ。

さすがに私の存在に多少なりとも気づいたよなぁ。

「駆け込み乗車する女とか最悪」とか思われちゃったかなぁ。

そう思うと急に恥ずかしくなりなかなか顔を上げられない。


「ふぅ~」っと一つ大きく息を吐く。

普通にしないと・・・。

なにもなかったかのように、普通に・・・普通に・・・。

そう言い聞かせながらゆっくりと顔を上げる。

「あ・・・。」

やばい、一瞬目が合ってしまった。

ほらぁ絶対変な目で見てたんだよぉ。

完璧に今目そらしたもんなぁ。

ますます恥ずかしくなった。

急いでスマホを取り出し適当なアプリを開く。

こんなに彼の近くに座ったのは初めて。

いつもは端のほうから密かに見ていただけ。

スマホの画面に目をやってはいるものの、なんの情報も入ってこない。

今の私には、彼しか映っていない。

といっても、顔を見られるわけもなく、ずっと足元だけを眺めている。

「あれ?」

そこでいつもとの違いに気づく。

今日はスニーカーじゃなくて、ブーツを履いている。

チラッと見えるコートも無地じゃなくチェック柄。

こう言ったらあれだけど、いつも彼は同じような服装をしていた。

毎日仕事に行くためだけの服装なんだろうと、別に気にしていなかったけれど、今日はちょっとオシャレな気がする。

ってことは・・・デートかな。

そうだよね、彼女くらい・・・いるよね。

私もチャンスがあるのなら、こんな人と出会えたらいいな。

そう思ったのと同時に、降車駅に着いた。

今日はなんとなく彼の後ろを歩くのをやめた。

なんだかむなしい気持ちになってしまいそうな気がした。

私はいつも人けを避けるように裏の小道に入る。

といってもお店に行くためにはこの小道に入るかパチンコ屋さんの中を通るかの二つしかないんだけど。

この小道に入るところには、ちょうど地下鉄で会う彼の勤めるビルがある。

いつもそのビルを気にしながらこの小道に入るんだけど、今日はその小道が少し切なく見えた。

小道を少し進んだところで後ろでなにか物音が聞こえて振り向いたけど、誰もいない。

「気のせいか。」

彼が追いかけてきてくれていたらな、なんてありえない期待をしまい、また歩き出した。


次の日、また地下鉄で彼と一緒になれた。

火曜日に会って、昨日と今日も。

今週はついてる!はずなんだけど・・・今日はコンタクトとの相性が悪い。

右目が痛くて彼を見ているどころじゃなかった。

やっぱりついてない。

しかたがないから目を閉じたままでいることにした。

少しだけ見ることができた彼の姿は、オシャレだったなぁ。

なんだかここ最近・・・というか多分昨日、彼女かいるんだと気づいてしまってから、彼に対する気持ちが強くなっている気がする。

ちょっと前だったらそんなことありえなかった。

でも、今歩く光のない深海のような毎日に終わりが見えてきたからこそ、張り続けていた気持ちが少し緩んで、変な期待をしてしまっているんだと思う。

そんなことはありえない。

ちょうど今は目をつぶっている。

このまま彼を見る目をつぶり続けたほうがきっといい。

でも、そう思えば思うほど・・・。


降車駅に着き、コンタクトを一度直すためにパチンコ屋さんのトイレに寄ることにした。

鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。

「私は幸せになれるのかな・・・。」

そんな不安な気持ちを振り払うかのように両手で頬をパンッと軽く叩き、仕事に向かう。


仕事の空き時間、やっぱりどうしても彼が気になってしまってスマホを手に取った。

飲食店は日曜日に休むことが多いのに、今日も彼は同じ時間に地下鉄にいた。

「お店はいつ休みなんだろう?」

大体の住所からあのビルの名前を調べると、入っているお店一覧が出てきた。

「定休日が日曜日じゃないお店は・・・。」

画面をスクロールしていくと・・・あった。

「あーかんしえる?ここかなぁ。」

ここは月曜日が休みで、他のお店は全て日曜日が休みだった。

「フレンチのお店かぁ。へぇ、美味しそう。ふ~ん、ランチとディナーねぇ・・・。」

店内の写真には木目調の床に色味を合わせたテーブルや椅子。

天井にぶら下がるシャンデリアなどが写っている。

昼と夜では少しお店の雰囲気を変えているみたいで、ディナーの写真ではお店の照明が落とされていて大人っぽい雰囲気が漂う。

「行ってみたいけど・・・一人じゃなぁ。」

ランチはお弁当を持参しているし、夜もあまり出歩かない。

こういう仕事をしている以上、どこに行ったってお客さんに遭遇してしまう可能性がある。

街中ならなおさら。

ランチでも外に出ないようにしているし、よほどのことがない限り繁華街に行ったりもしない。

ましてや、こんな気品のありそうなお店に一人で行くのは勇気がいる。

というか、レストランに一人で来るお客さんなんているのかな?

「誰か誘って行けたらいいんだけどなぁ。いや待った、そもそも本当にここにいるのかな?」

いざ勇気を出してお店に入ったはいいけど、彼がいなければ元も子もない。

「はぁ。」

むなしいため息がこぼれる。

「なにかきっかけがあればいいのになぁ。」

せめて、彼がこのお店で働いているってことの確認ができれば・・・。

「ふふっ。って、なに考えてるんだろう私。」

これ以上近づくつもりはないなんて思っていたくせに、どうやったら彼に会えるかってことばっかり考えている。

「やめやめ!」

言い聞かせるようにそう言い、スマホの検索画面を閉じカバンに戻す。

「私に普通の恋なんてできるはずがない。少なくとも・・・今は無理。」

胸の奥、胃袋の上のほうがギュッと小さくなるような感覚。


「ひめかさ~ん、そろそろ準備お願いしま~す。」

男性スタッフの声が聞こえた。

「はい、今行きます。」

今から会う男性にいくら抱かれようと、優しくされようと、この胸の苦しさが開放されることはない。

それでも私は偽りの笑顔で手をとらなければならない。

「大丈夫、我慢できる。辛くなんか・・・ない。」

そう心でつぶやき、部屋を出る。

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