天国
ぽぽい
天国
綿菓子のようにふわふわで、絹のようになめらかな地面。
それはまるで、空に浮かぶ雲のよう。
暖かく過ごしやすい陽気。青く澄み渡る空。優しく神聖な音色に包まれた、不思議なその世界。
そこは天国。
人や動物、植物に至るまでの全ての生きとし生ける者が死んだ後、来ることになる世界。
この世界で生活をする者達は自由が許され、そして、皆が幸福であることが義務づけられている。
この地で自由を謳歌し、幸せを心に貯める事で、来世に再び生を受ける事ができる。
苦しみに満ちた現世を生き続けた者達に、安らぎと安息を与えるための場所。
それを目的とした夢の楽園。
しかし、自由といえど責任は生じる。
いくら自分が幸福になろうとも、周りの者を不幸にすればその分だけ、その者の側から、幸せは逃げていく。
そして、多くの幸せを失い、美しいその世界から可哀想だと認識されたその時。
その者に待ち受けるのは魂の浄化。すなわち、その者の消滅である。
いや、正しくは消滅するのではなく、形を変えられ、新たな魂として生まれ変わる。他人も自分も幸せにできる素晴らしい魂に変性する。と言った方が正しいかも知れない。
しかし、何にせよ、その者がその者として、来世に生を受けることは無くなるということに変わりは無い。
ここは天国。美しすぎる自由の箱庭。
そこに住まう者達は本当に様々。
来世の切符を手に入れるため、周りを幸福にしようとする者。
消滅してもよい。ただ、この天国にいる一時を自分のために楽しもうとする者。
何も考えず適当に過ごす者……。
色々な者がその地で過ごしていた。
そんなある日その世界にやって来た新しい女性の魂。
彼女は、悲しみにうちひしがれ、嗚咽を漏らしながらとぼとぼと、この地にやって来た。
彼女が嗚咽を漏らし、涙をこぼす度。
彼女の心は悲しみに閉ざされ、彼女の心から幸せな想いが、また一つ、また一つと、消えていく。
幸せの消失。それは彼女の魂が消失するまでのカウントダウン。
もしも彼女が、このまま悲しみに捕らわれ続けていれば、美しき箱庭のルールに則り、いずれ彼女の魂は消滅してしまうだろう。
彼女の魂がやって来たその日。
悲しみに捕らわれた彼女を励まそうと、魂達が集まってくる。
心から彼女を心配する優しき者。
落ち込む彼女を励まし、笑顔にすることで、転生への切符に近づこうと画策する者。
表向き励ましのつもりで来ているが、本当はただ冷やかしに来ただけの者。
それぞれが、それぞれの思惑の中で、泣いている彼女を、慰め、励まし、声をかけた。
しかし、彼女の心にその者達の想いは届かない。
彼女は、来たときと変わらず、ただ、しくしく、と悲しみに捕らわれ泣いている。
彼女の心から、また少し、幸せが消えた。
彼女の魂がこの地にやって来て数日。
彼女の周りにいる人は、少しだけ数が減っていた。
彼女の傍に残った人々は、相変わらず、悲しむ彼女を励ましていた。
ある者は優しい言葉を。
ある者は楽しい歌を。
ある者は幸せな物語を。
各々が、彼女の心を喜びに満たそうと、優しい空気をその場に作る。
彼女の周りで、彼女を励まそうとする優しい人々。
彼らは彼ら自身が作り上げた、優しい空気に癒されて、自己満足の幸せを手に入れた。
彼女の周りは、幸せに溢れていた。
しかし、肝心な彼女の心に、幸せは届かない。
最初と何も変わらない。彼女は、しくしく、と悲しみを漏らす。
彼女の心から、また少し、幸せが消えた。
彼女の魂がこの地に来て、さらに時間が流れた。
ある程度幸せを備蓄することができ、転生の切符を入手する足掛かりを手に入れた、一部の者達は、新たな幸福を求めてその場を去った。
彼女の周りに残るのは、何名かの心優しき魂達。
残った者は必死に彼女を慰めようとした。
しかし、心を救うための、言葉も、歌も、物語も、なにも彼女に届かない。
押しても引いても、何もかもがうまくいかない。
何故上手くいかないのだ。小さなイライラを感じた者は、心から幸せが失われるのを感じた。
笑顔にしてあげる事ができず申し訳ない。気持ちの落ち込んだ者は、心から幸せが失われるのを感じた。
どうすれば笑顔を取り戻してくれるのだろうか? 困惑し、悩んだ者は、心から幸せが失われるのを感じた。
負の感情が伝染する。
一人。また一人。彼女の周りから魂が離れていく。
そして、彼女は一人になった。
それでも彼女は変わらない。
ただ、悲しみに涙を流す。
彼女の心から、また少し、幸せが消えた。
どれ程彼女は泣いたのか。
どれ程彼女は悲しんだのか。
もうよく分からない。
ひたすら泣き続けた彼女。
最早彼女の心にはわずかばかりの幸せが残るのみ。
幸福を持たぬ可哀想な魂。
楽園からその烙印を押された彼女の姿は、少しずつ、少しずつ、薄くなっていく。
もう、嗚咽の音すら聞こえない。
彼女という存在は、どんどん無へと近づいた。
「こんな所に居たのか」
悲しみに沈む彼女の元に、一つの声が落ちてきた。
しくしく、と泣き続け、
そんな彼女の耳に、心に、初めて届いた声。
泣き張らした顔で、彼女はそっと顔をあげる。
その声の元には一人、男性がいた。
彼女は、もう音にならぬ声を挙げ、驚きに満ちた表情で男性を見つめる。
固まる彼女。そんな彼女と対称的に、男性はすいすいと、軽い足取りで彼女に近づいた。
そして、彼女の前まで来ると男性はその場にしゃがみ、座り込んでいる彼女と目線を合わせた。
そして、男性は優しい手つきで、彼女の涙を拭う。それから男性は、そっと優しく彼女を抱き締める。
「お前は、本当に……。俺にどんだけ苦労かけさせる気だよ。あのまま、何も考えずに生きていてくれたら俺達……」
男性は彼女を抱き締める力を少しだけ緩めると、目と目が合うように体を動かした。
「いや、やっぱいいや。それ、今言っても、しょうがないもんな」
苦笑混じりの優しい声で喋る男性。
女性は困惑したような、それでいて少しだけ恥じらい嬉しそうな表情で、静かに男性を見つめていた。
「何にせよ今日、この瞬間から俺達夫婦な。悪いけど、お前に拒否権とかないから」
男性は、ニッと女性へ笑いかけながら、そう言った。
彼女は再び涙を流す。
しかし、その泣き顔は悲しみに満ちた物では無くなっていた。
幸せが静かに二人を包む。
二人が転生を果たすのは、きっとそう遠い未来では無いだろう。
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