第8話 リリーシュの気持ち
医務室に着くと、医務室担当のリ・ケイヨウが優雅にお茶を飲みながら、読書をしていた。黒い長髪を後ろに一つに束ねて、銀色の縁の眼鏡をかけている。切れ長の目をドアの方に向けた。
「おやおや、そんなに傷だらけでどうしたのですか?」
本から顔を上げて、リリーシュの様子をみてケイヨウは言った。眼鏡と手にしていた本を置いて、リリーシュに丸椅子に座るように促した。
「それでは、私はここで失礼します。リリーシュ様、お大事になさってください。」
付き添っていたシャンセマムはリリーシュが椅子に座るのを手伝った後、リリーシュの目を見てそう告げた。リリーシュは、慌ててお礼を告げた。
「ありがとうございました。ハンカチは、改めてお返しいたします。」
「大したものではないので、お返しは結構です。それでは、失礼いたします。」
そう言うと、シャンセマムは医務室を出て行った。
残されたリリーシュは、ケイヨウと向き合った。鼻血は止まっているだろうが、鼻に当てたハンカチを取るのをためらった。ケイヨウは、深い黒い瞳をリリーシュに向ける。
その目は何だか怖くてリリーシュは目を逸らしてしまった。
「では、全体的に傷だらけですので、少し沁みるとは思いますが、あちらで身体を洗っていただきましょうか。」
ケイヨウは、気だるげに立ち上がると、シャワールームのような部屋をリリーシュに案内した。中には、病院着のような着替えと、大きな水瓶が置いてあった。リリーシュは、擦り切れた制服を脱いで、水瓶から水をすくって体についた土を丁寧に落とした。
固まり始めていた血も水をかけることでまた傷口から血が出始めた。
顔も水で洗ったが、傷に沁みてあちこちが痛かった。ケイヨウが渡してくれた薄いタオルで、水気をふき取り、リリーシュは着替えを終えて最初に腰を下ろした椅子に戻った。
「どうして、全身傷だらけなのです?」
リリーシュの傷を見ながらケイヨウが尋ねた。リリーシュは、俯いて答えた。
「走っていたら、転んでしまいまして、慌てていたので手を着きそびれてしまいました。」
声に出して説明すると、ますます恥ずかしくなってきた。耳まで赤くしたリリーシュを見て、ケイヨウは顔をほころばせた。
「なるほど、それは大変でしたね。・・・・それでは色は、かなりきついですが良く効く薬を塗りますので動かないでくださいね。」
そう言って、ケイヨウはワゴンの上から大きめの瓶を取って蓋を開けた。中身をヘラで取って直接リリーシュの傷に塗った。確かにその薬の色は、緑色をしていて匂いも消毒のようなきつい匂いがした。塗られた瞬間、リリーシュは、冷たさと傷が痛み小さく声を上げた。
「ごめんね、痛かったかな?でも、我慢してくださいね。」
そう言って、ケイヨウは残りの傷に素早く塗っていった。そのせいかあまり痛みを感じなかった。
「さぁ、あとは顔ですね。顔には・・・・・こちらがいいですね。」
手にしていた瓶を置いて、もう少し小ぶりの瓶を手に取った。また、中身をヘラで掬い上げて今度はケイヨウの手のひらにのせた。その薬の色は、青色をしていて匂いはなかった。
ケイヨウは手のひらから薬を取りながら、おでこから鼻筋へと順番に優しく塗ってくれた。しかし、先ほどの薬よりも沁みるようで、顔中がヒリヒリと痛んだ。
「痛みますか?魔法で治せればいいのですけど、生憎そういった治癒魔法はあまり使用できないので申し訳ありません。痛みを和らげるくらいの魔法くらいでしか医務室では使用できないので、こちらで我慢してください。」
ケイヨウは、顔を歪めているリリーシュを見て言った。
魔法学校では、命の大切さを理解してもらうために、命に係わるようなケガや病気以外は魔法で治せないようになっている。そもそも、生徒同士で授業以外に魔法を使ったりする際は、教員たちの許可と立ち合いが必要で、勝手に使用できない。魔法は、命を簡単に奪えるものであることを生徒たちは理解して、秩序を持って使うように日頃から教員たちに言われている。
薬が浸透するように、手や足、おでこに包帯が巻かれた。ほぼ、全身包帯だらけに近い状態になったリリーシュは、息をやっとできたように大きく息をはいた。
「その状態ですし、今日は医務室に泊まりなさい。寮の先生には私から報告しておきます。」
ワゴンの上を片付けながら、ケイヨウはリリーシュの方を向いて言った。リリーシュは、自分の手のひらの包帯をみて頷いた。
「ありがとうございます、リ先生。・・・・私は、ゲルブ寮のリリーシュ・ハンバードと申します。名乗るのが遅くなりました。」
リリーシュは片づけを続けているケイヨウの方を見て伝えた。
「どういたしまして。あぁ、教えてくれてありがとうございます。リリーシュ嬢は有名だから知っていますよ。」
ケイヨウは振り返って、笑顔で言った。
「有名?私が、ですか?」
意味が分からず、きょとんとしているとケイヨウが、話し出した。
「ご自覚がないのですか。我が国の王子の婚約者であり、宰相の娘さんですし、何より二年生最初の授業で、ドラゴンを沈められたと教員たちの間でかなり噂になっていますよ。それなのに、本日は転んで怪我をしたのですから、不思議ですよね。」
「え、ドラゴンを私が?そんなことありましたか?」
身に覚えがないし、それに記憶も春休みの途中から抜けている。
「おや、転んだ時に頭でも打ちましたか?記憶がないのですか?」
心配そうに、ケイヨウがもう一度リリーシュの頭を触って確認を始めた。
その時、医務室のドアをノックする音が聞こえた。
ケイヨウは、「どうぞ。」とドアに向かって声をかけた。ドアが開くと、そこにはアルバートを抱えたセサムが立っていた。
「おやおや、今度は王子様ですか。どうされたのですか?」
セサムにベッドにアルバートを寝かせるように促しながらケイヨウが聞く。
「魔法動物の世話をしに小屋へ向かっている途中で倒れていたので、とりあえず医務室に運んできました。」
そっと、ベッドにアルバートを降ろしてセサムは答えた。
脈を確認し、瞼をあけてアルバートの状態をケイヨウは確認した。
「うーん、気を失っているみたいですね。それに、食事をきちんととっていなかったみたいですね。かなり痩せている。」
ケイヨウは、アルバートの少し乱れた服を整えて、薄い掛布団をかけた。
リリーシュは、包帯だらけで動きにくそうにしながら立ち上がった。
「アルバート様・・・・・」
ベッドの脇まで来たリリーシュは、アルバートを見て息をのんだ。ただでさえ白い顔が、死んだような色の白さだ。それに、頬も少しこけていてやつれていた。
そういえば、春休みに入ってからアルバートに会った記憶がない。そもそも、同じクラスで授業も選択授業以外は一緒のはずなのに、アルバートと会話した記憶がない。
(どういうこと?私、記憶が飛んでる。なんで・・・・・)
リリーシュは、アルバートの様子と自分の記憶がないことに違和感と不安を覚えた。
少し、めまいがしてふらついた。リリーシュの横にいたセサムが慌てて支えた。
「大丈夫ですか?リリーシュ様。」
「あ、ありがとうございます。・・・・私のことご存じなんですか?」
肌の色がやや黒く、黒い髪を後ろに流していてかなりの男前だ。でも、リリーシュの記憶の中にはこんな男前の顔は、いない。
「はい、宰相様のお嬢様ですよね。」
セサムは、軽く笑って答えた。リリーシュは、恥ずかしくなって目を逸らした。
そして、肩に置いてある手から離れるように横にリリーシュは動いた。こんなかっこいい人のそばにいたら、顔が熱くなってしまいそうだ。そう思って、横に動いたが、足に包帯を巻かれすぎていて動きづらく再びよろめいてしまった。
「危ないですよ。・・・良ければこちらに座りますか?」
有無を言わさず、セサムはリリーシュを抱き上げて、アルバートの横になっているベッドの隣にあるベッドに座らせた。突然の出来事にリリーシュは固まってしまった。
「リリーシュ様、大丈夫ですか?」
リリーシュの顔を覗き込んで、セサムは問う。リリーシュは耳まで赤くなって、顔を伏せてしまった。何か気に障ることをしただろうか。セサムは、首を傾けた。
その様子を見ていたケイヨウが、面白そうにしながらセサムに声をかけた。
「あまり、令嬢に気安く触ってはいけませんよ。」
セサムは、ケイヨウの方を見た。そして、少しリリーシュから離れた。
「失礼いたしました。気を付けます。」
「いいんです。少し、驚いてしまって。・・・・ありがとうございます。」
リリーシュは顔を上げて、セサムを見た。セサムは、少し安堵して微笑んだ。
リリーシュはまた顔が熱くなるのを感じた。
「おや、そろそろ私は会議の時間です。アルバート様は、気を失っているだけなのでこのまま様子を見ましょう。リリーシュ嬢、あなたもそちらのベッドで休まれてください。」
ケイヨウは時計に目をやって、リリーシュに声をかけた。
「はい、ありがとうございます。」
「それでは、私もここで失礼いたします。リリーシュ様、お大事になさってください。」
セサムも、ケイヨウと一緒に医務室を後にした。
カーテンで区切られた向こう側から、一定の呼吸の音が聞こえてくる。それにリリーシュは安心した。
小さい頃に父親と王宮へ一緒に行ったときに、初めてアルバートと会ったことを思い出していた。
綺麗な金髪で、碧眼、それに色白で端正な顔立ち。まさに、王子様という見た目のアルバートに目を奪われた。まさか婚約者になるとは思ってもいなかった。
でも、今はデイビッドが婚約者ということみたいで、さっきの出来事が思い起こされた。
別に、アルバートもデイビッドも嫌いではない。宰相の娘に生まれたのだから、政略結婚というものも物心がついたときには仕方のないことだと勝手に思っていた。
だが、いざああいうことをするという場面では、やっぱり好きな人としたいと思ってしまった。
デイビッドにケガはなかっただろうか。
そんなことを考えている内に、自然と瞼が重くなり、リリーシュは眠りについていた。
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