第26話

 デイジーの死体が、そこにはあった。左胸と左脚の一部が欠けていて、右頬もまるで味見をしたように齧られていた。それは人間の狂気の体現だった。時代とともに涵養された純度の高い狂気が、前時代人の俺に、まるでひけらかすように突き付けられたのだ。

 とてもその場に居る気にはなれず、別の部屋に入り直そうとドアノブに手を伸ばしたとき、背筋が凍るような高い笑い声がドアの向こうから聞こえた。


「逃げろ、逃げろ、逃げろ。逃げ場はないぞ。部屋に逃げ込んだかな?」


 ガチャガチャとドアノブが鳴った。


「ああ、ここか。鍵がかかっているぞ。今すぐ開けるべきだよ、ロビン。どうせ死ぬんだから、さっさと終わらせた方が楽だ」


 このドアの鍵は、絶対に一週間ももたない。奴がドアの外で俺を殺す準備をしていたら、俺は百パーセント勝てない。皮肉なことに、彼の言う通り、今、ドアを開けて奴と戦うことこそ一番のチャンスだ。


 ドンドンと強くドアが叩かれる。後ろの死体、前の殺人鬼。俺の精神はキリキリと薄く長く引き伸ばされて、もう少しで千切れてしまいそうだ。いっそのこと何も分からなくなるくらい狂ってしまえばいいと思った。いや、もう狂っているのかもしれない。もう自分が狂っているかどうかを判断する理性があるかどうかすら分からない。


 もう終わりだと思った。


 俺は生きることを諦めた。と、同時に、これまで高鳴っていた心臓が嘘のように落ち着いた。死を受け入れればもう怖いものなどない。


 ぽつぽつと、乾いたアスファルトに雨が降るように、これまでの記憶が無作為に蘇ってくる。


 ポップコーン。適度な塩味がきいてうまかった。俺が死ぬきっかけになったあの日。映画館で。映画の内容はもうほとんど覚えていないのに、あの味はよく思い出せる。それから、氷で薄味になったコーラ。


 イザベラ。ふわふわの茶の縮れ毛。俺の人生に生きる喜びを与えてくれた。そして絶望も。俺は未熟だった。ホンファの言うように、哀れみだけで俺の相手をしていたはずがないのに。昔は彼女の写真も見られなかったけれど、今は彼女があれからどんな人生を歩んだのか調べてみたい気分になっている。もうそれが叶うことはない。


 そう、ホンファ。彼女はどんな人生を歩んでいたのだろう。結局聞けずじまいだった。人の身の上話は聞いておいて、ズルい女だ。友人としてまた会おう、という約束は永遠に果たせない。――いや、すぐに果たせるとも言えるのか。


 シェーンの死。

 俺はシェーンの行為を内心馬鹿にしていた。しかし、こうして絶対に助からない窮地に陥ってみると、それは確かに選択肢のひとつとして正しかったと思う。このままむざむざ獲物になって敵を喜ばせるよりは、相手の意のままにならず自死することで一矢報いたと言えるんじゃないか。


 父さん。母さん。まだ諦めるな、という声が聞こえそうだ。せっかく未来に希望を抱いて俺を冷凍したのに、自ら命を投げ出すなんて許さないぞ。


 ブランドン。俺を助けるために、最後の命の火を燃やしてくれた。しかし俺は結局逃げ切れなかった。彼の死を無駄にしてしまった。


 エラディオにも叱られそうだ。腹の赤い血。彼の話。彼の言葉――。


 冷めたピザだ。そう、確か、初めてデイジーが自宅に来た日、デイジーは冷めたピザを表情をぴくりとも変えずに食べたんじゃなかったか。だから俺は、次の日デイジーをトルコ料理の店に連れて行ったんだ。そうか、俺は、デイジーにうまいものを食わせたかったんだ。そして笑顔にしたかった。なんだ。思い返してみれば簡単なことだ。俺は――。


「愛してるよ、デイジー」


 ごくごく自然に、その言葉が口から出た。

 俺は血の気が引いてすっかり真っ白になった彼女の、まだ生前と変わらない美しい髪を撫でた。


「ごめんな、素直になれなくて。

 自分でも馬鹿げてると思っていた。アンドロイドを愛すなんて狂ったこと、俺がするはずがないって。でもきっと、あの病室でサイネリアを飾ってくれていたときから、俺は君に惚れていたんだ。

 理屈じゃないんだ。君が愛を知らないと言ったとき、俺は愛を教えたい気分になった。両親の墓の前で立っていたとき、君が来てくれて俺は本当に嬉しかった。君を守れなくて本当に苦しかった。俺は愛に臆病だった。許してくれ、デイジー」


 デイジーはもちろん何も答えなかった。だが彼女の電子頭脳は生きていて、額のルビーで俺の顔と声を捉えているのは分かっていた。その彼女の電子頭脳もやがて機能停止し俺のことを忘れてしまうだろうが、どうせ俺も死ぬんだから構いやしない。このままドアが壊されるまで、デイジーに話しかけていようか。語りたい思い出や伝えたいことは、山ほどある――。


 電撃的な閃きだった。


 死体と遊ぶべき。


 あの刑務所で会った自称予知能力者は、そう言っていなかったか?

 そうだ、今、確かに俺は鉄の棺の中で狂いかけながら蓋を開けるべきか迷っている。彼は蓋を開けずに死体と遊ぶべきと言っていた。彼自身、予言の意味を正確に捉えることはできないと言っていたから、『遊ぶべき』じゃなく『語るべき』、つまり悔いのないように死ね、という今の状況を言ってのかもしれない――。

 いや、あの男はそんな風だったか? 彼は俺に生きるための助言をしていたように見えなかったか? それに、悔いのないようにと言うなら『死体と遊ぶべき』だけで十分だ。『蓋を開けずに』とわざわざ言うのは、そこに生きる希望があるからじゃないか?


 俺は一心不乱に、全身全霊で考えた。脳細胞が捻じ切れるくらいに。微かな希望が見えているときの人の思考力は、俺自身驚くくらいに鋭く働いた。


 そして一つの考えに辿り着き、言った。


「デイジー。船内での通信を許可する。ロボットに命令して、アレクサンダー・ナカタを拘束してくれ」


 それからも暫くドアを叩く音がとまらなかったが、やがてそれはピタリと止んだ。念のため、俺はデイジーに向かって外には聞こえない小声で囁いた。


「もしドアの外が安全だったらドアを二回ノックするようロボットに命令してくれ」


 指示通り、ドアが二回ノックされた。ドアを開けると、血まみれのロボットが二体立っていて、そばにこれまでライアンと名乗っていたナカタが倒れていた。彼の胸にはメスが刺さっており、既に絶命しているようだった。

 おそらくドア越しに俺の命令を聞き、ロボットが来たことで確定的な敗北を悟り、自分で刺したのだろう。ロボットたちはもうどうすることもできず、ただ蔑むようにナカタを見下ろしていた。


 ロボットのリプログラミングなんて、ナカタにもできなかったのだ。できたのは、登録されている船長とライアンの容姿データの改竄ぐらいのもの。いや、彼が額にルビーを埋め込んだときに、ついでに整形をしたのかもしれない。

 とにかくそうしてナカタはライアンになりすまし、本物のライアンは殺され、乗客全員にその死体を船長のものと思い込ませることに成功した。死体の顔が潰れていたのは、額のルビーのせいでその死体がアンドロイドであることがばれないようにするためだったのだ。ロボットに貼り付けられた顔の皮は顔を潰した理由を悟られないためのミスリードにすぎなかった。


 しかし、ロボットにとってはナカタが船長のままだった。そして船長はこの船で最高の権限を持つ。だからロボットは『人を殺さない』というルールに反さない限りギリギリまで彼に従ったのだろう。ロボットがデイジーを襲うことは問題なかったし、エラディオを襲うふりをさせることもきっと可能だったに違いない。だが、ロボットは人を殺せないから、金属片をエラディオの腹に刺す最後のひと押しだけはナカタ自身の手で行う必要があったのだ。


 ロボットは狂ってなんかいなかった。狂った命令をされていただけだったのだ。


 金属片がエラディオに刺さったあと、ロボットが武器であるはずの金属片を手放したのは、金属片をエラディオの腹から抜いてしまうと出血が酷くなるからだろう。そしてそのあとロボットが真っ先にナカタを襲ったのは殺人犯を拘束するためだった。俺はそんなロボットを敵と思い込み、停止してしまった。俺が安堵する横で、ナカタは内心ほくそ笑んでいたのだろう。誰かにロボットを停止させることこそ彼の作戦であり、だから彼はロボットが一体だけで俺たちを襲うよう仕向けたのだ! デイジーの足の骨を折ったロボットには侵入禁止エリアが設定されていたに違いない。そのせいで途中で不自然にデイジーを追わなくなったと考えれば、辻褄が合う。


 結局、なぜナカタがこんな事件を犯したのか、真相は聞けずじまいだった。アンドロイドになりきって行う殺人をゲームのように楽しみたかったのかもしれない。あるいは度重なる殺人によって人が狂っていく様を観察して悦に入りたかったのかもしれない。いずれにせよ、彼の動機や内心を想像することにもう意味はない。俺は生きた。それだけで十分だ。

 あとは、七つの死体と一週間、この船の中で過ごせばいいだけだ。

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