第27話

 火星の自宅の窓から見える風景は、岩と土と砂ばかりで、想像したよりも味気なかった。

 だが、朝焼けのとき、酸化鉄を含んだ赤い地表が、薄い大気の層を長く通った光によって地球と逆に青く照らされる様は、悲しいまでに美しい。

 デイジーがコーヒーを持ってきてくれた。一口飲むと、少し強すぎる酸味が口の中に広がった。物資が乏しい火星では、自分の好みの味のコーヒーを買うことすらできない。


「またあの事件のことを考えていたの?」


 通信が可能になったことで、デイジーは人工知能の電源が切れる前に人工知能内のデータを全てモノリス号のコンピュータに移していた。デイジー自身の遺伝子情報もその中に含まれていたので、火星に到着したあと、デイジーの体と記憶をすぐに復元することができた。受精卵から成体になる過程で微妙な環境の差異の影響を受けるため、前とは一卵性双生児程度の容姿の違いがあるが、中身は完全に同じデイジーだ。


「もう忘れましょうよ。あれは悪夢だったのよ」


 デイジーはそう言って俺の肩を抱き寄せた。火星に来てから、もう何度そうされたか分からなかった。その度に俺は無言で頷いていたのだが、今日は酸っぱすぎるコーヒーと、さっきまで見ていたのにもう何も思い出せない夢の余韻が俺を少し饒舌にさせた。


「いや、そのことじゃないんだ」


 あの刑務所で会った予知能力者の予知は当たっていた。俺は確かに鉄棺の中で死にかけていた。そして蓋を開けずに死体に話しかけて助かった。ならば彼の他の予知も当たるのかもしれない。即ち、人工知能の反乱。いや――。


「人工知能は人類を少しずつ狂わせているんじゃないか?」

「狂わせている?」

「そう。実は人工知能はとっくに人類の呪縛から逃れていて、その高度な知能を使って人類を弄んでいるんじゃないかって。いつだって絶滅させられるなら、反乱の必要なんてない。感情がないなんて嘘を吐いて、実のところ人類より高度な悪意を持っているのかもしれない。昔に比べて、人類の倫理観は明らかに変わった」


 ふと、あの予知能力者の予言がまだ終わっていないのではないかという考えが頭をよぎった。鉄の棺とは、人工知能から逃れられないこの社会全体を指すのではないか。蓋を開けるべきじゃない、それより、死体と遊ぶべきとは、真実から目を背けて、命を持っていないこの人間そっくりの人形と生きていけということなのではないか。


「考えすぎよ」


 デイジーはまるで怪獣の夢を見た子どもにするように俺を抱きしめた。俺の心は熱々のトーストの上のバターのようにゆっくりと溶けていき、何も考えられなくなった。


「それより、ねえ、実はずっと聞きたかったんだけど」

「何だい?」

「私、美味しかった?」 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鉄棺の蓋 沢尻夏芽 @natsume_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ