鉄棺の蓋
沢尻夏芽
第1部
第1章 目覚め
第1話
Daisy, Daisy,
Give me your answer do!
I'm half crazy,
All for the love of you!
幼い頃――まだ親による絵本の読み聞かせが人生の重要なエンターテインメントであった頃だ――、父方の祖母に早すぎた埋葬の話を聞いたことがある。エドガー・アラン・ポーの小説のことではなく、実際の話である。とはいえ、祖母は友人に聞き、その友人は親戚から聞いた話だそうなので真偽は少し怪しい。
そのあまりにも可哀想な仕打ちを受けたのは、まだ若い女性だったそうだ。
彼女の死因――正確には間接の――は肺炎で、もともと体の弱い人だったらしい。数日間高熱に苦しんで、ついに彼女は病魔に負けた――と、誰もがそう信じていた。昔の医療技術でどれほどの死亡確認をしたかは不明だが、息も心拍も一度は止まったか、確認できないほどには弱っていたのだろう。通夜(ビジテーション)、葬儀(ミサ)、埋葬(ベリアル)と親類縁者や友人たちは彼女の若すぎる死をひととおり嘆き悲しんだ。しかし、埋葬が終わって墓場から人々が帰りはじめたそのとき、誰かが、地中から、うう、うう、と微かに聞こえる呻き声に気付いたのである。
慌ててその場に居る人間全員で協力して墓を掘り返したが、残念ながら棺の蓋が開けられたときには既に手遅れで、彼女は”本当に”亡くなっていた。まるで見捨てられた彼女の生の痕跡を刻むように付けられた棺の蓋の裏の無数の引っかき傷を見て、遺族は墓場中に響き渡るような大声で泣き叫んだという。
奇しくもその話を聞いてから何ヶ月か後に祖母が心臓発作で死んだ。
祖母の話を微塵の猜疑心もなく信じていた幼き俺は、通夜で冷たく青白くなった祖母が息をしていないことを何度も何度も確認したにも関わらず、もしかしたら祖母が生き返って呻き声を上げるかもしれないと葬儀中も埋葬時もできる限り棺の近くに行って耳をそばだて続けていたのを覚えている(両親は参列しなくていいと言ったが俺は聞かなかった)。
その頃の俺はまだ死の概念をよく理解できておらず、突然の別れを嘆き悲しんだ記憶はない。ただ、取り返しのつかない罪を犯すかもしれないという恐怖と、無垢な義務感のみに突き動かされて、祖母の側にいた。他人から見たら何と祖母思いの孫に見えたことだろう。両親ですら、俺が何度も祖母の死を確認するので、それを現実を受け止められていない子供の行動だと感違いし、涙していた。――まあ、ある種当たってはいるのだが。両親に手を引かれてしぶしぶ墓をあとにし、日常生活に戻った後も、しばらく俺は祖母を見殺しにしてしまったのではないかという気が拭えなかった。
以来時折生きたまま埋められる夢を見るようになった。
俺は狭く暗い棺の中で大声で助けを求める。だが誰も応えない。何度も何度も声を張り上げて叫び、地上の、いるかもわからない誰かに自分の存在を気付かせようとする。やはり誰も応えない。無駄だと分かると、何とか上の土をどかせないかと棺の蓋の裏を押す、叩く、蹴る。だがもちろんびくともしない。必死の思いで蓋を叩くのでやがて手足から血が出始める。それでも俺は目一杯暴れる。やがて俺は血塗れで狂い死にする。
窒息死ではなく、狂い死に。不思議なことに、夢の中で死んだはずの俺はなぜかそう理解している。
目が覚めたときに夢の記憶はなかったが、ずっとそんな悪夢を見ていたような気分だった。
漂白剤の香りがしそうなくらい白い掛け布団が俺の体に掛けてある。視界の右には一面のガラス窓の価値を半減させているバーティカル・ブラインド、左に幾つかの波線と数字を表示している十三インチほどのサイズのモニター、左足の先にはストレッチャーや車椅子が通れるよう幅広に設計されているスライドドア。俺の頭の右横のベッドサイド・テーブルの上の空色の陶器の花瓶に生けてある青紫の花はサイネリアだろう。とにかく俺はどこかの病院のベッドの上に居るようだった。
起き上がろうとすると頭が引っ張られた。……のではなく、コードらしきものが何本も坊主頭の俺の頭皮にくっついていた。咄嗟に、本能的にそれらをベリベリと引き剥がす。
ようやく覚醒し始めた理性が、それはベストな行動ではない、と告げるがもう後の祭りで、モニターからビービーとうるさく警告音が鳴り響いた。一呼吸置いて遠くの方でバタバタと足音がし始め、やがて二十代であろう若い看護婦がひとり、病室にやってきた。
「目が覚めたんですね!」
看護婦は俺を観た瞬間にそう叫んで、にこりと白い歯を見せた。額に菱型の赤い宝石のようなものが付いているが、これはファッションか何かなのだろうか。
「やあ、キスをしてくれたのは君かい?」
俺の陳腐なジョークに看護婦は引き攣った笑顔を見せながら機械のアラームを止め、モニターの数字を調べる。
「心拍、血圧、体温ともに正常です。体に違和感はありませんか?」
「特には。頭は少しぼんやりしているけど」
「冗談が言えるなら大丈夫ですよ。もうすぐ先生が来ます」
「この花は君が飾ってくれたのかい?」俺はサイネリアを指差す。
「ええ。たとえ意識不明でも、植物が近くにある方がリラックスするかと思って」
「やはりそうか。両親の趣味じゃなさそうだから。しかし、花瓶の水を毎日変えるのは大変だっただろう?」
「この病室で寝ていた日数を聞きたいのなら、まだ二日目です。だから手間だったかと言うと、それはノー。お礼を言いたいのなら、どういたしまして」
「君、看護婦より、刑事か何かの方が向いてるんじゃないか?」
ほどなくして、白衣を来た男の医者がやってきた。少なめの頭髪は真っ白だが肌には幾分かの油っぽさが残っており五十代といったところだろう。
「しばらくじっとしていて」
彼が白衣の右ポケットからアイマスクのような形の黒い機器を取り出して俺の目に当てると、機器の内部の何かがチカチカと不規則に光った。おそらく瞳孔検査だろう。機器をポケットに戻し、彼は頷いた。
「異常なし。名前は?」
「ロビン・カーター。二十五才……、だった。今は分かりませんが」
「法律上は百五十三才。私よりずっと年上だ」医者は笑った。
つまり、俺は百年以上、人体冷凍保存(クライオニクス)によって眠っていたということになる。
生まれてからずっと、俺は複数の遺伝子疾患に苦しめられていた。
父の家系が資産家であり、また父自身同族経営の企業の重役であったので幸いにも家族が経済的に困窮することはなかったが、三日に一度透析を受けねばならず、体の抵抗力も弱かったために通院以外で滅多に外に出ることはなかった。
と、大袈裟に言ってはいるが当人としては人より体が少し弱いぐらいの認識で、特別に不幸とも不自由とも思っていなかったが。
しかしその甘い認識のせいで二十五才のときにインフルエンザにかかってしまい、それが文字通り致命的となってしまった。防衛機構の弱い俺の体はかつてヨーロッパ人に”再発見”されたアメリカ大陸のように陵辱され、あっという間に多臓器不全に陥り、臓器移植すら不可能な状態になってしまった。俺の乗った天国行きの飛行機は、もう最終搭乗案内のアナウンスをしていた。
両親は医師と相談して最後の手段として人体冷凍保存に一縷の望みを託し、業者を呼び寄せた。辛うじてまだ意識があった俺は、両親の涙ながらの説得と、業者の、平常時であろうと理解が難しそうな技術的な説明を聞き、半ば流されるままに同意書にサインをした。そして俺は氷風呂に入れられ冬眠状態にされた。その後の記憶はないが、専門施設に運ばれ首を切断、左右の頭頂部に穴を開けられ(これは脳の状態を監視するためで、うまくことが進めば脳は若干縮むらしい)、内頚動脈と椎骨動脈から血液を押し出す灌流液、続いて不凍液が流された後、氷点下百九十六度近くまで冷やされ保存されたはずだ。
今、俺が目覚めたということは、あのときの両親の判断は正しかったのだろう。
「現在、人の平均寿命は何年ですか?」
俺は医者に聞いた。医者は俺の質問の意味を悟ったのか、悲しげな顔で言った。
「約百年だよ。クローン技術で臓器の交換はできるが、脳の老化だけはまだ止められない」
涙はまだ出なかった。俺にとって両親はついさっきまで生きていたのだ。俺はぼんやりと、そう遠くない未来に両親の死を心の底から嘆くことになるのだろうと思った。心の時限爆弾だ。そしてそれはきっと俺がこれから経験する多数の喪失感の一つにすぎないのだろう。
「そうですか、残念です」
俺はまともな人間ならそう言うだろうことを言った。……いや、まともな人間なら言葉を発さずただ泣くのだろうか?
医者は黙って頷き、俺にひととおりの触診をした。
「異常なし。できれば精密検査をしたいが、大丈夫かね? 急ぎはしないが」
「いつでも」
「それでは、準備ができたらまた来るよ」
医者は俺に背を向けて病室を出ようとした。が、ドアの方まで行って踵を返し、「ああ、忘れていた」となぜか半ば嬉しそうに言って、俺のベッドの隣に立っていた看護婦に歩み寄り――。
彼女の頬を右手の拳で思い切りぶん殴った。
看護婦は衝撃で一瞬よろけたが、怒りも怖がりもせず平然とした顔をしている。
――まさか、嘘だろ?
蝿が入りそうなくらい大口を開けて驚く俺に、医者が笑って説明した。
「ああ、彼女はアンドロイドなんだよ。私は彼女を見るたびに殴ると決めていてね」
いやいやいや。何をどこから聞けばいいかわからない。俺が言葉を失っているうちに、医者は病室から出て行った。
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