第5話 くずれる世界
玲美が怯えた顔で騒ぐのがおもしろいのか、摩子は必死に笑いを噛みころしている。
「まぁ、まぁ、落ち着いて」
「わたし、本当に怖い話って苦手なんだから!」
「のこされた彼女は思うのよ。女の子は、死んだ友達をよびにきた、彼女にとっての死神だったのかもしれないって」
摩子はいきなり真面目な顔になると、さらに言葉をつないだ。
「その後しばらくたって、その同室の生徒は授業中、ふとぼんやりしてしまい、窓の向こうに目をやるの。そしたら、ね」
「も、もういいわよ」
「金網のむこうで、小学生ぐらいの女の子が手をふっているの。きゃっ! なにするのよぉ!」
摩子は笑いながら、投げつけられてちらばった楽譜をひろった。
「まぁ、まぁ、落ち着いて。むかしの話よ、寮につたわる伝説の怪談みたいなもの」
「寮につたわる伝説って……、じゃ、本当にその話を聞いた人がいるわけなの? 本当にそういうことがあったってわけ?」
玲美は真っ青になってしまった。もう、今夜からは絶対に窓の外を見たりできない。
「もう何年もむかしの話よ。だいじょうぶよ。だって」
摩子は楽譜をかえし説明した。
「その話を最初にした先輩は、すくなくとも死ななかったからこそ、友だちか後輩につたえられたんだもの。だいじょうぶだってば、玲美ったら怖がりね」
「悪かったわね! わたし怖い話は本当にきらいなの」
「ごめん……。でもね、これ、真面目な話なんだけれど」
また摩子の声音がかわったことを警戒して玲美はややあとずさる。
「金魚ちゃんの腕の痣見た? あれって、相当強くつねられたあとだったよ。わたし、バンドエードわたしたとき、ちらっと見たんだけれど、痣はひとつだけじゃなかった。ブラウスの袖がゆれて、かすかに見えたんだけれど、火傷のあとみたいなのもあったの。腕の、このあたり」
摩子は自分の肘のあたりを指さした。
「そ、それって、まさか」
摩子の目は真剣そのもので、もう五月だというのに、玲美はさきほどとはべつの怖さで肌寒くなってきた。ニュースなどでよく聞く――虐待なのだろうか。まさか、とは思うが。
「わたし……、わかるのよ」
「え?」
「わたしも、されたことがあったから」
「嘘でしょ……」
「小学の三年生ごろのこと」
いきなり信じられないくらい重たい話をされたことに、玲美は同情よりもプレッシャーを感じている自分にうろたえた。
「ママ、そのころパパの浮気のことで悩んでいたみたいで、すごいヒステリーになってて……。わたしのすることなすことが気に入らなくて、いつも怒っていて」
玲美は呆然として摩子を見つめた。
(やめて、そんな話しないでよ……。わたしには聞けないし、話されたって、摩子の苦しみはかかえられない)
子どもの身体に消えないほどの傷をのこすまでに我が子を傷つける親など想像するだけで恐ろしくて仕方ないし、そんな現実がこの世のなかにあることも玲美には耐えがたい。
(うちも離婚家庭だけれど、お父さんとお母さんはただべつべつの人生をえらび、わたしはこの学院に来ることをえらんだだけだもの。そんなつらい想いをした子の気持ちなんてわからない……わたしには、やっぱりカウンセラーなんて無理なんだ)
玲美はそのことを痛感した。
「金魚ちゃん……もし虐待されているなら、かわいそうよ。だれかが、なんとかしてあげなきゃ」
そうだろうけれど、それは玲美には無理だ。
「摩子がそんなに気になるなら、だれかに相談してみる。山下舎監とかに」
一瞬、摩子は、雛人形のようにほそい目を、悲しそうにゆがめた。
(そんな目で見ないで――)
言葉は言葉にならずに玲美の胸のなかで消えていく。息ぐるしさに目まいがした。
玲美は床がかたむき、あたりがくずれていく錯覚をおこした。
いや、錯覚ではなく、たしかに玲美のまわりの世界はくずれた。
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