そのうち、いらっしゃるだろうと思ってましたよ


「こんばんは。

 お嬢さん」


 その男は自分を見た。


「そのうち、いらっしゃるだろうと思ってましたよ――」




「持田さんが乗り逃げしたタクシーは道端に乗り捨ててあったそうです」

と警察から報告を受けた志貴が言ってきた。


「駅近くのあぜ道に止めてあったらしくて。

 電車に乗っていってしまったのかもしれませんが。


 無人駅で防犯カメラもないので、確認に手間取っています。


 それから、古田支配人の方も、もうタクシーを降りたそうです。

 これもやはり、駅の近くで」


 晴比古は腕を組み、渋い顔で聞いていた。


「二人は待ち合わせていたんでしょうかね?」

とまだ顔を腫らしている幕田が言ってくる。


 駅か、と呟いた晴比古は、

「何処か遠くに行こうとしたんだろうかな」

と言うと、幕田が、


「二人で逃避行しようとしたとか?」

と言って、菜切に気づき、あっ、という顔をする。


 ……今度は菜切に殴られるぞ、と思ったが、菜切はなにか考えているようで、特に反応しなかった。


「いや、それはないだろう」

と菜切のためではないが、否定する。


「持田は支配人の意識を失わせて、閉じ込めてたんだぞ」


「じゃあ、持田さんが電車に乗ったのを見て、支配人が追いかけていったとか?」


「そんなタイミングよく行くかな。

 第一、昼間でもあまり人の居ない駅だぞ。


 同じ電車に乗ったら、バレるだろうし。

 行き先だけ確認して、やり過ごし、次の電車に乗ろうとしても、なかなか来ないだろうしな」


 深鈴が、

「支配人には持田さんが何処に行くのかわかっていて、追いかけていったんじゃないですか?」

と言ってきた。


 時間的に見ても、持田が先に動いているはずだし、まあ、そうかな、と思う。


「そうだな。

 行き先はなんとなく想像つくしな。


 志貴、和田さんに……いや、俊哉に訊いてみてくれ。


 あいつはたぶん、それを確かめに帰ったんだろうから」




 あんな奇想天外な方法をとったのは、ただすべてを先延ばしにしたかったからではないのか。


 今はそう思う。


 わかっていたから。

 彼が悪いんじゃないと。


 自分は殺人の準備をしていると思うことで、心を落ち着けたかったのではないか。


 それなのに、止めてくれる人たちの忠告は聞かずに、自分はタクシーに乗り続けた。



 

 霧雨が降っていた。


 だから、自分が傘を持っていても、なんの不思議もなかっただろうと思う。


 当日、雨が降ったらどうしようかな、と思いながら、そのタクシードライバーに霊園の住所と番地を告げた。


 背筋のしゃっきりした、還暦くらいの年頃の女性ドライバーだった。


 そのドライバーが車を出そうとしたとき、つい、言っていた。


 こんなまどろっこしいことをして、なんになるんだろうと思ってしまったのかもしれない。


「いえ、……人殺しのところまで」


 少し疲れていたのだろうか。


「お客さん」

と呼びかけられる。


 その幕田という女性ドライバーは鏡越しではなく、直接、こちらを見て言ってきた。


「どのタクシーに乗っても、誰もあんたをそこへは連れてってくれないよ。


 ……やめときなさい」


 思わず、助手席をつかみ、叫んでいた。


 張り詰めていたなにかが彼女の言葉で切れたように。


「藤堂の家まで。

 乗せていってくださいっ。


 お願いしますっ」


 自分は泣いているようだ、とぼんやり思った。


 霧雨の中、タクシーはあの道を走っていた。


 だが、霊園を過ぎ、目的の家を過ぎても、タクシーが止まることはなかった。


 まるで自分が気が済むまで走ってくれるかのように、ただ走り続けていた。


 メーターは回っていないようだった。


 警察の前を通ったとき、自分は言っていた。


「止めてください」


 人の親切に出会い、無性にむなしくなったからだ。

 自分のしていることが。


 だが、タクシーは止まらない。


 幕田というドライバーは前を見たまま言ってきた。


「止まらないよ。

 だって、あんた、なんにもしてないじゃないか」


 その一言が深く胸に刺さった。


 自分は、なにも出来ない、光恵みつえのために。


 そして、こんなことしたって、なんにもならない。


 わかっているのに。


「……でも、止められなかったんです」


 震える手で傘を持ったまま、いつの間にか、また、泣いていた。




「貴女が来るの、待ってたんです」


 訪ねてきた、その女性に向かい、自分は言った。


 藤堂の恋人だった看護師の女だ。


 偶然にも、藤堂の車に跳ねられた妻、光恵が担ぎ込まれた病院の看護師だった。


 光恵はすぐに亡くなったわけではなかったので、自分の恋人が跳ねたのだとも知らず、病室を覗くたびに、何度も慰めと、きっと助かるという励ましの言葉をくれていた。


 事件のあと、藤堂は塾を辞めたが、彼女も看護師を辞めたという。


 いろいろと思うところがあったのだろう。


「私が藤堂さんを殺すんじゃないかと思ってたんでしょう?」

 その通りです、と自分は彼女に言った。


「でも、何度も実行しようとしたのに。

 人の優しさに触れたり、私の意気地がなかったり。


 藤堂さんは目印に仏像まで置いて、殺しに来い、罵りに来いと言ってくれていたのに。


 いつの間にか、仏像、なくなってましたけど。

 あれ、貴女が片付けてしまったんでしょう?」


 そう言うと、彼女、持田紗江は頷いた。


「……死んで欲しくなかったから。

 あのあと、私たちは上手くいかなくなって別れてしまったけれど。


 心配で、あの人の暮らす村の近くで働いていました。


 今でも好きかはわからない。


 でも――


 死んで欲しくはなかったんです」

 

 そう持田は涙を落とした。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る