大失態だ


 ああ、大失態だ。


 幕田は溜息をつきながら、藤堂の家の周りを歩いていた。


 表側からは、まだ晴比古たちが話している声が聞こえている。


 おばあちゃん……なんか事件に関わってるのかな、と思いながら、スマホを出し、ハルにかけてみたが出ない。


 もう寝ているのだろうか。


 いや、この時間は、ハルの好きなサスペンスをやっている時間のはずだが、と思いながら、ふと顔を上げたとき、目が合った。


 誰も居ないはずの家の中を見て、目が合ったことが一瞬、理解できない。


 手入れの行き届いていない湿った裏庭側の掃き出し窓は、真ん中だけがすりガラスになっていて、上も下も家の中が見えている。


 上には頭と目が見え、下には足が見えていた。


 足だ……。


 生きた人間だ。


 いや、幽霊でも足はあるって志貴刑事は言ってたけど、これは……。


「先生っ」

と幕田が叫んだとき、いきなりその建て付けの悪そうなガラス戸が開き、中から男が飛び出してきた。


「先生ーっ!」


 真正面から男にぶつかられ、幕田は晴比古を呼びながら、冷たい苔の上に吹っ飛んでいった。




「幕田っ!

 大丈夫かっ」


 晴比古が裏庭に駆けつけたとき、幕田は顔を押さえてしゃがみ込んでいた。


「先生っ。

 山の方に逃げましたっ。


 たぶん、古田支配人ですっ」

と言う。


 家の中から飛び出してきた古田に吹き飛ばされながらも、諦めずに食らいついて、足を掴んだものの、顔を蹴られて逃げられたようだった。


 古田の姿は既にない。


 ちょうど、パトカーがサイレンを鳴らしながら下から来たので、木々の生い茂る裏山を見ながら、晴比古は、

「俺たちじゃ、山の地理には不案内だからな。

 追うのは地元の警察に任せるか」

と呟いたあとで、幕田の前にしゃがむ。


「どれ、見せてみろ。

 いい男が台無しじゃないか」

と幕田のその頑張りに、頬に触れて、笑うと、


「……先生、すみません。

 役立たずで。


 あ、あと、治療していただけるのなら、深鈴さんでお願いします」

と言ってきたので、


「志貴ー、手当してやれー」

と言い、即行、立ち上がった。




 結局、深鈴が腫れた幕田の頬をハンカチで冷やしてやった。


 呼んだタクシーを待つ間、晴比古は縁側にしゃがんでいる幕田の頭の上から、ガラス越しに部屋の中を窺う。


 志貴と和田たちは、不法侵入があったということで、家の中を見て回っていた。


 今のところ、不審なものも手がかりも見つかってはいないようだが。


「持田と支配人は此処で待ち合わせしていたのかな。

 それとも、たまたま出くわしたのかな」

と晴比古が呟くと、深鈴が、


「支配人の方が先に来ていて。

 隠れていたので、持田さんは気づかないまま、我々に追われ、出て行った、ということもあるかもしれませんよ」

と深鈴が言ってくる。


 そうだな。

 その可能性もあるか、と思いながら、

「……それにしても、タクシー来ないな」

と言っていると、パトカーの無線でなにか連絡していた若い警察官がやってきて、


「どちらまで行かれますか?

 我々も下に下りるので、乗せていきますよ」

と言ってくれた。


「そうか。

 すまない。


 ちょっとタクシー会社に確認してみよう」

と言っている間に、深鈴はもう電話している。


 だが、すぐに眉をひそめ、

「あのー、もう行きましたよって言われたんですが」

と言ってきた。


「……もしかして、下に下りた古田支配人が乗ってったとか?」

と深鈴が言う。


「そうかもしれないな……」


 タクシーがちょうど来たので、呼んだのは自分だと言って乗っていってしまったのかもしれない。


 半裸で布をまとっていたという古田だが、藤堂のものなのか、今はちゃんと服を着ていたので、タクシーに乗って行っても違和感はなかったことだろう。


「タクシーが今、何処を走ってるか訊いてみます」

と深鈴は言い、警察の権限を使うためか、その若い警察官に電話をかわってもらっていた。


 少し、警察官が話したあとで、深鈴はすぐに電話を取る。


「はい、そうなんです。

 警察に頼まれて、事件に協力しているものなんですが」


 いや、頼まれてない、と思いながらも、晴比古は口は挟まなかった。




 最初から無理があったんだ。


 そう痛む足で走りながら、思っていた。


 もうタクシーは自分を乗せてくれない。


 時間内に移動しなければ、せっかく作ったアリバイが崩れてしまうのに。


 それにしても、こんな滅多に車も走らないような道、なんで、舗装する必要がある。


 アスファルトは硬く、走る足を痛めつける。


 自分は幽霊のはずなのに、なんでこんなに足が痛い。


 なんだか笑いそうになってしまった。


 こんな計画立てないで、自分が捕まる覚悟でやるべきだった。


 すまない。


 すまない、と心の中で何度も妻に詫びる。


 ようやく、ゆっくり出来ると笑っていたのに、何故、こんなことに。


 あのとき、あの車が歩道に乗り上げてこなければ。


 作っておいたアリバイはもう崩れる時間になっていた。


 構わない。


 それでも、私はあいつを殺す。


 最早、用のない傘を握り、走る自分の横を、タクシーではない車が駆け抜けていく。


 何故か少し先でスピードを落としていたが、やがて居なくなった。


 月は大きく白く、あの男が暮らす山の上で輝いている――。



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