アリアドネの糸

 



 ようやくホテルに行けることになり、晴比古は城島と、事件と美しい刑事の話で盛り上がっていた。


 一人手紙を読んでいた深鈴に、

「深鈴。

 お前はあの刑事にビビらなかったな」

と言ったら、深鈴は顔も上げずに、


「美形は先生で見慣れてるんで」

と流した。


 自分があの刑事に敵愾心を抱かなかったのは、もしかして、深鈴が彼に舞い上がらなかったからだろうかな、と思った。


 だが、もしかしたら、深鈴がなんとも思わなかったのは、別に好きな相手が居るからかもしれないと思っていた。


 前からそうではないかと思われる気配があったからだ。


 いや……別に自分が深鈴を好きだと言うわけではないのだが。


 いや、本当に。


「先生は優しくないですからねえ」

と深鈴は手紙を見たまま呟く。


「俺の何処が優しくない」


「優しくないとは言わないですが、あの刑事さんみたいにわかりやすい優しさではないので。


 仕事と日常生活に疲れたOLさんたちが欲しているのは、ただの美形じゃなくて、なんでも叶えてくれそうな王子様ですから。


 彼女たち、先生の方には向かないんでしょうね」


「……別にあの女たちに好意を持たれなくても、なにも気にしてないぞ」


 フォローを入れてくれるかのような深鈴に言い返すと、城島が笑う。


「いや、どっちかって言うと、深鈴さんが側に居るから、対象外だったみたいですよ。


 あの人は彼女居るみたいだからとか言ってましたよ」


「誰が彼女ですか」

と深鈴が切り捨てるように言う。


「一緒にリゾートに来て泊まる相手は恋人だと思ってるんでしょう」

「ただの出張ですよ」


 お前の方があの女たちより、優しさがないぞ、と晴比古は思った。


「それにしても、本当にこんなところにホテルがあるんですね」


「ええ。

 近くには村もありますよ。


 精進湖と富士山が見える観光地です」


「へー、樹海もいろいろですね。

 樹海ホテルさんからは、なにが見えるんですか?」


「なにも。

 静けさを楽しんでいただくだけです。


 人が来ませんのでね」


 そういえば、と城島はミラー越しに悪戯っぽく笑ってみせる。


「ちりーん ちりーんとの話、警察で聞かれましたか?」


「いえ」


「樹海の中で、時折、ちりーん、ちりーんって音が聞こえるらしいんです。


 何処かに即身仏があるんじゃないかって話なんですけどね」


 即身仏になるべくして、穴にはいった僧侶がまだ生きているということを示すために、鳴らしていたという鈴。


 もちろん、今、即身仏になるものは居ない。


「掘り出すことを忘れられた即身仏が自分は此処に居る、と教えているのかもしれないですね」


 恐らく、此処を訪れた客に話す、定番の話なのだろう。


 そんなファンタジックな感じに城島は締めくくったのに、深鈴が突っ込んで訊いていた。


「なんで、ちりんちりんで即身仏なんですか?

 他の鈴の可能性もあるわけですよね」


 城島は苦笑いし、

「さあ、怪談ですからね。

 話を怖くするためなんじゃないんですか?」

と答えている。


 そんなこと訊かれても、まあ、困るだろうな、と思いながら、城島のためにフォローを入れてやる。


「誰かが見たのかもしれないな。

 樹海の中だし、即身仏のひとつやふたつ」


「城島さん、その怪談話って、いつ頃からあるんですか?」


 更に突っ込んで訊かれ、ええーっ、と城島は困ったように笑う。


「そうですねえ。

 たぶん……かなり昔から」


「城島さんは聞いたことあるんですか? その鈴の音」


 此処まで深鈴に押され気味だった城島が、ようやく此処でにやりと笑った。


「実は……聞いたことがあるんです」


 また口を開こうとした深鈴の口を塞ぐように、


「着きました」

と言った城島は微笑む。


「此処から、あの赤い糸をたどって歩いていただきます」

と木と木の間に張り巡らされている赤い、糸というより、太い紐を指差し、城島は言った。


「では、続きはまた今度」


 




 城島は晴比古たちを降ろすと、笑顔で何処かへ行ってしまった。


「やれやれ。

 ホテルまで歩きか」

と樹海の木々の間に張り巡らされた赤い紐を眺め、晴比古は溜息をついた。


「そう距離はないと思いますよ。

 さっきのOLさんみたいな人たちがそんなに歩くとは思えないですから。


 そこはやはり、楽しいわね、これ、きゃっきゃって言ってる間に着くと思いますわよ」


 楽しいわね、きゃっきゃってキャラじゃない場合はどうしたらいいんだ、と思っていた。


 それでも、深鈴と並び歩き始める。


「紐だろこれ」

と晴比古が太いそれを叩いて揺らしながら言うと、深鈴は、


「本当に糸だと切れたり、夜は見えなくなったりすますもんね。


 なんか、アリアドネの糸みたいですよね」

と糸に導かれるように、樹海の先を見渡しながら言う。


「縁起の悪いこと言うなよ」

「なんで縁起が悪いんですか」


「だって、あれ、恋人に利用されて捨てられる話だろ」


「はあ。

 まあ、そうとも取れますね」


 迷宮から愛するテセウスを糸を使って助け出したアリアドネ。

 だが、彼女は、すぐに捨てられる。


「最後は、酒の神ディオニュソスと結婚して、ハッピーエンドですよ」


「ディオニュソスって、俺、酔っ払いのイメージしかないんだが」

と言うと、あまりの夢のなさにか、深鈴は、ははは、と笑う。


「ギリシア神話って苦手なんだよなー。

 なんで、英雄は、私は英雄だって言って現れるんだ?」


「いや、それ、読んだ本が悪かったんじゃないですか?」


「ところで、これ、本当に樹海ホテルに続いてるのか?」


「誰かが結び変えたら、簡単に殺人事件ができますね。

 樹海で迷って、即身仏になるんですよ」


「莫迦だな、お前。

 普通に餓死しても、即身仏にはなれないぞ。

 

 木食行して、身体の肉を減らしたり、内臓が腐らないよう漆を飲んで処理したり。


 それでも、気候や風土に合わなくて失敗したりするんだから」


「先生、推理はしないけど、雑学は豊富ですよね」


 ……つくづく失礼な助手だ、と思った。


「そうじゃない。

 単に、生まれ変わる前、俺は即身仏だったんじゃないかと思うときがあるからだ」


「なんでですか」


 夢を見るんだ、と晴比古は言った。


 しっとりと湿った紐に手を触れながら、


「時折、夢を見るんだ。


 干からびた自分が、こうして、左手を広げて、誰かを救おうとしているようにじっとしている夢だ」


「それなら、私もそんな夢を見ますよ。


 こう、広げた左手に外れたコンタクトを持ってて、右手でハンドルを握ってて、その右の腕を蚊に刺されてるんだけど、叩けないし、かゆいっていう……」


「なにを伝えたいんだ、その夢は」


 っていうか、現実にあったんだろ、それ、と言う。


「私、視力いいんですってば。

 っていうか、先生。


 即身仏なら、生まれ変わっちゃ駄目じゃないですか。

 衆生を救わないと」


「今、別に救いたいものはないな。


 そうだ。

 いいトリックを思いついたぞ」


「は?」


「この紐の先に、樹海ホテルと全く同じ別のホテルがあるんだ。


 それでーー」


「ベタですね」

 まだ言い終えてもないのに、あっさり切り捨てられる。


「それに、死体、向こうから来てるじゃないですか」

「向こうから来てるって」


「あの死体が載っていた車。

 樹海ホテルのものだって言いましたよね。


 警察は何処かで載せられたんじゃないかと思ってたみたいですけど。


 最初から載ってた可能性もあるじゃないですか」


「ホテルが死体の載ってる車を客に貸したって言うのか」


「いや、ホテル側は知らなかったかもしれません。


 樹海の中だから、鍵もかけずに駐車場に置いてるんじゃないんですか?


 夜中に誰かが死体を始末しようとして、そこにあった車に放り込んだとか。


 何処か遠くへ運んでもらえることを願って」


「死体を始末したいなら、街中に運ばれるより、樹海の何処かに置き去りにした方がいいだろう」


「じゃあ、見つけてもらいたかったとか」

「なんのために?」


「うーん。

 保険金殺人とか?


 死亡が確認されないとお金、出ませんからねえ」


「……干からびてるじゃねえか」


 そんなのなら、早くに死体を出してきているだろう。


「お前、俺が止めてみろって言われた殺人が、あの死体のことだと思ってるのか」


 あれがホテルから運ばれてきたという想定の許に、そう考えてみているのだろう。


「止めてみろって書いてあったんだぞ。

 それこそ、干からびてんじゃねえか」


「そうなんですよねえ。

 あれが指定の死体なら、もう誰も死なないからいいかなあ、と思ったんですが」


 少しは優しいところもあるな、と思ったのだが、深鈴は、


「一瞬にして干からびる方法とかないですかねえ?

 ちょっと調べてみましょうか」

などと物騒なことを言い出す。


「雑学王、なにかいい知恵ないですか」


「お前、新たに死体、作り出そうとしてんじゃないだろうな。


 それから、俺はそうそう雑学もないぞ。

 お前がたまたま俺の知ってることばかり訊いてくるからだ」


「あ、樹海が途切れましたよ」

と話を聞いているのかいないのか、深鈴は前を指差し、笑う。


 タブレットで確認した通りの、古城にも似た外観のホテルが現れた。


 まあ、城というには、随分と小ぶりだが。

 その前に、城島が立っていた。


「いらっしゃいませ、樹海ホテルへようこそ」

と微笑む。


「……双子」


「なわけないじゃないですか。

 私たちが来たのとは別の、車が通れるルートがあるんですよ。


 物搬送するのにも大変でしょ?


 さっきのOLさんたちの車も、いつもはホテルの敷地内にあるんじゃないですか?」

と深鈴が言うと、


「そうです」

と城島が笑った。


「あの糸をたどって来ていただくのは、最初の一回だけです。

 だって、毎度じゃ面倒臭いでしょう?」


「車で来たら、さっきの目的地すり替えトリックは使えませんよね」

と話を蒸し返してくる深鈴に、うるさい、と返す。


「ま、死体は此処ではない場所で見つかったので、今回は関係ないですけどね」

と言う深鈴に城島が訊いていた。


「さっきのトリックってなんですか?」


 しなくてもいいのに、深鈴はご丁寧に解説を始めた。


 それを聞いた城島は、

「ははあ。

 そりゃまた、すごい財力のある犯人ですね」

と楽しそうに笑う。


 まあ、そりゃそうか、と思った。


 まったく同じ建物をもうひとつ造るなんて、偉くお金持ちの犯人だ。


「しかも、樹海の中は結構、音が響きます。

 静かなので。


 そっと造ることは不可能かと。


 かといって、更に遠く、人気のない樹海の中に造っては、赤い糸が長くなりすぎて、気づかれたり、たどっている人が疲れて先へ進まなくなると思います」


「あの……真剣に考察してみないでください。

 俺のしょうもない思いつきなんで。


 今回の事件とは全然関係ないですし」


 はい、でも、楽しかったです、と城島は言った。


「私、ミステリーが大好きなんです」


「それで、こんな謎めいたホテルに勤めていらっしゃるんですか?」

と深鈴が訊くと、


「いやあ、場所が謎めているだけで、極普通のホテルですから。


 静かすぎて、退屈しのぎによくミステリーを読んでるんですよ」

と城島は答える。


 深鈴が深く同意するように頷いていた。


「確かに。

 此処は本を読むのに、いい環境ですよね」


「それで、私、今日は探偵さんがいらっしゃると言うので、実は、ワクワクして待ってました」


 わざわざ言わなくていいのに、深鈴が職業は探偵だと予約確認のときに言ってしまったのだ。


「だって、手紙を寄越した犯人は先生のこと、無職で予約してたんですよ。


 だから、ホテルから確認の電話があったとき、ちゃんと仕事がありますって言ったんです」

と憤慨した様子で深鈴が言う。


 まあ、ちゃんとあるような、ないような……。


「第一、先生が無職なら、私、無職の人の助手になってしまいます」


 無職の人の助手って、なにすんだろうな、といつもその無職の人すれすれの晴比古は、ぼんやりと思っていた。








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