転がり落ちてきたもの……





「先生、ちょっと失礼します」


 トイレに行っていた深鈴が帰ってきたようだった。


 失礼します、と言えば聞こえはいいが、退け、と言っているのだろう、と思いながら、晴比古は片眼を開け、己の脚を指差す。


「飛び越えてけ」


 物臭なんだから、といつもの愚痴を吐きながら、ひょいと長い脚で深鈴が跨いでいく。


 結構な距離を歩いたり、山を登ったりすることもあるから、パンツで来いというのに、いつも反抗的にミニスカートだ。


 肉体労働はしない、と主張しているのかもしれないが。


「はい」

と缶コーヒーの缶を寄越しながら、深鈴は文句をたれる。


「先生はほんとに自堕落ですね。

 顔がよくなかったら、殺してますよ」


 なんだそりゃ、と思いながら、晴比古は、冷たい缶の蓋を開けた。


「深鈴。

 なんで、缶コーヒーだ」


 車内販売が売りに来るだろ、と言うと、

「だって、あれ、濃いんですもん」

と己の好みを押しつけてくる。


 だが、この助手に逆らうと怖いので、はいはい、と流した。


 深鈴はコーヒーは飲めないが、缶コーヒーが好きなんだと知っている。

 でも、自分だけ飲んでは悪いと思ったので、買ってきてくれたのだろう。


「もう一回、見せてもらってもいいですか?」

 そう言われ、事務所に届いた封書を見せる。


 その住所のホテルで、これから殺人事件が起きるから止めてみろという内容の手紙だ。


 パソコンでプリントアウトされている。


 依頼金まで入っていたのだが、この住所、調べてみたら――。


「樹海なんだよな~、此処」


「樹海って、結構、観光地みたいですよ。

 でも、この住所の辺りは、他に建物ないみたいなんですけど。


 ほら、赤い糸をたどって来てくださいって書いてある」

と深鈴がタブレットで、そのホテルの写真を見せてくれる。


 瀟洒な建物でなかなかの雰囲気だが。


「その糸頼りに行ったり来たりしてるんじゃないだろうな。

 切れたらどうするんだ」


「絶海の孤島か、雪崩で道が埋まった雪山になりますね」


 もちろん、一人ずつ死ぬんでしょう、とこの、ろくでもない助手は言う。


「でも、ちょっとロマンティックですよね、赤い糸なんて」


「そうか?

 樹海の中だぞ。


 糸の先にしゃれこうべでもありそうじゃないか」


「それもまた、味がありますよね」


 あるか!? と深鈴を見ると、彼女はその印字された文章を熟読しながら、

「でも、この手紙、無理がありますよね」

と言った。


「先生は、犯人がわかるだけなんですから、止めろって言われても、事件前には無理ですよね」


「……今、役立たず、と言ったように聞こえたが」


 いや、意外と勘がいいんですね、と深鈴は言う。


 車内販売がやってきて、誰かが買ったらしい。


 コーヒーのいい香りが漂う中、晴比古は機嫌悪く、冷たいコーヒーを一口飲んだ。





 



「いらっしゃいませ。

 阿伽陀あかだ先生」


 駅に着くと、黒塗りのクラシックカーが待っていた。


「こんにちは。

 わざわざ迎えに来てもらってすみません」


 樹海ホテルの運転手、城島きじまに晴比古が言うと、いえいえ、と笑顔で荷物を持ち、トランクに積んでくれる。


「すみません」

と深鈴も丁寧に頭を下げていた。


 雑談をしながら、木々で鬱蒼とした道を走っていたが、前の車のトランクが開いたり閉まったりしているのに気づいた。


 昔風のセダンだ。


「なあ、あれ」

と言ったとき、前の車がカーブに差し掛かる。


 大きく車が傾いたとき、トランクが開き、中から細長く、白い布の塊が転がり出てきた。


 驚いた声を上げ、慌てて城島がハンドルを切る。

 その塊とすれ違う瞬間、見た。


 回転しながら、解けた布から、干からびたミイラのようなものが覗いているのを。


 それは、ガードレールのない崖下に落ちていく。


「止めてくださいっ」


 晴比古の言葉で、ちょうど、広いスペースまで来ていた車が止まる。


「大丈夫か?」

と横を見ると、


「……あ~、ぶつかるかと思ったー」

と深鈴が運転席を掴んで呟いていた。


「いや……驚くのそこじゃねえだろ」








 晴比古は、細い木々の間の斜面を木で身体を支えながら、下りていく。


「先生、大丈夫ですかー」

と上の道から、呑気な助手の声がした。


「……お前、下りてくる気ないな」


 そう呟きながらも、もちろん、彼女にそんな危ないことをさせるつもりはなかった。


 転がり落ちた布は、木に引っかかって止まっていた。


 捲れていたはずの布が、崖を転がったときに、逆回転したのか、また巻かれている。


 そうっと覗こうとした瞬間、木に引っかかっていたそれが、また、一段下の木まで落ちた。


 布が外れて、一部が覗く。


 それは手だった。


 枯れ枝のような手が自分に向かって突き出されているかのように、少し持ち上がっていた。


 あのときみたいだ……。


 そう思ったとき、深鈴が上から下りてきた。


「もう~、なにやってるんですか」


「危ないぞ」

と死体を見ながら言うと、いきなり、深鈴が数字を言い始めた。


 あ? と振り返る。


「今、これを落とした車のナンバーです」

「すごいなお前」


「そんなことないですよ。

 私、動態視力と視力がいいんで。


 ところで、先生はなにができるんですか?」


「……今、此処から、お前を突き落とすことはできるな」


 ちょっと来い、と崖下を見ながら、手招きをした。







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