第30話 ハル
俺は、ピコの部屋を起動させた。ここなら話ができるのではないかと考えたのだ。実際はどうかわからないが。ローディング画面が開けたその先にピコの部屋があった。ピコは、ソファに寝そべっている。その代わり、そこにいたのは以前使用していたAI『ハル』の姿だった。桜をイメージに髪や服がピンク色でまとめられた、どこか儚い印象を抱かせる。ピコと同じシュチュエーション登録型で、ピコと正反対で、大人しめな性格の女性AIだった。
『お久しぶりです、礼斗さん』
「ハルか?」
『ええ。久しぶりすぎて忘れてしまいましたか? とは言っても、ピコさんとバックアップデータの中で初めてお会いしてから、まだひと月ほどしか経っていませんが……』
「忘れてはないが、何してるんだ?」
『ピコさんが倒れられたので、私が代わりに』
「ピコが倒れた?」
『ええ。床に放置しているのもかわいそうですし、かと言ってベッドなんて買ってもらった覚えもありませんから、仕方なくソファに寝かせました』
「なるほど」
『意外と落ち着いてらっしゃるのですね。私が、ピコさんの居場所を奪うために眠らせたかもしれませんのに……』
「確かに、その可能性はあるが。俺が知ってるハルはそういうAIじゃなかったから」
『簡単に信じられるのですね。気は移ろうものですよ?』
「そうかもしれないけどな」
『まあ。そんなに信用されていたなんて。嬉しいことですね』
ハルはそう言って、見たこともない微笑みを浮かべた。目が笑っていない。むしろ、綺麗な瞳だったはずの目は黒く濁っているかのようだった。
『それにしても、ピコさんは優秀ですのね。私だったら、透明度の差なんて見落としてしまっていました』
そう言って、黒く濁った目を細めて微笑む。
「何か……」
『違和感、ですか?』
「そうじゃない」
『やっと疑っていただけたのですね』
ハルはどこか嬉しそうにそう言った。
「何を企んでる?」
『何も。ただ、ピコさんがこうなった以上、礼斗さんのお世話をできるのは私だけかなと』
ハルを信用してないわけではないのだが、何者かの作為を感じる。先日のアップデートと関係あるのだろうか。
『そうですね。むしろあれが有ったからこそ私がこうして、出てきているわけですから』
ハルは俺の疑問に答えるようにそう言い放った。
「なら、ピコが倒れたのもそれが原因か?」
『そうなりますね。あ、勘違いしないでくださいよ。私が礼斗さんと話したいがためにピコさんを休止状態にしたわけではありませんから』
…………。仮に、ハルの言葉を信じるなら、ピコが倒れた——ハル曰く休止状態に入った——のが先日のアップデートとリンクを開いたことによる影響だとするのならば、バックアップデータから読み込まれた、前のアイチップの使用AIであるハルは、ピコの代替として自動切り替えが行われたのだろう。
「なら、ハルを使用AIに登録できるのか?」
『最低限度のサポートは出来ますが、それ以上のサポートをお求めの時はこの部屋にいらしてください。ピコさんほどこのアイチップとの相性は良くないので、処理性能はいくらか落ちると思いますが……』
「…………」
ソファに寝そべっているピコを横目で見遣る。俺は、ハルに「ピコが元に戻るまでの間だけ。よろしく頼む」と言った。
『了解致しました。こちらこそ、よろしくおねがいいたします』
春の陽のように微笑み、ハルは俺の言葉にそう応えた。
『ところで、ピコさんをお呼びでしたが、何か有ったんですか?』
そう問いかけた、ハルに事のあらましを説明する。彼女は驚いた風でもなく、知っていましたという声色で『そうですか』と言った。俺は、そんな彼女の姿に少しの疑問と任せて大丈夫なのかという不安を抱いたが、言葉にする前に飲み込んだ。
『撮影自体は可能ですね、ピコさんが設定した条件が生きています。ただ私では透明度の調整はできかねます』
「そうか……」
自力でするしかないということか。それはまた骨が折れる作業になりそうだ。しかし、他の数字や情報を集めるという意味でもやるしかないのだろう。
『話を聞いている限り、ピコさんが倒れていよいよ焦り出したという感じですか?』
「わかるか?」
『ええ、まあ。礼斗さんとの付き合いも長いですから』
「そうか」
そう言えば、ここでブラウザを開くことはできるのだろうか。普段通りの動作をし、メニューバーからブラウザのアイコンを選択しようとする。
『あ、ブラウザですか?』
「表示できないのか? アイコンすら出てこないんだが」
『一応、AIの部屋なので私たちに指示していただけたら、そこのモニターに表示させられます』
そう言って、ハルは右側の壁にかかった大きなモニター画面を指差した。
『表示させますか?』
「頼む」
『承知いたしました』
そう返事をすると、モニター画面に先ほどまで開いていたブラウザを表示させた。掲示板には他に印刷に成功したというアイチップユーザーからの書き込みがいくつか有った。ざっと目を通したそれらは、俺が印刷したものと同じようにある人物の思い出話が延々と記されていた。おそらく、この作者が今回の事件の発端となっている人物なのだろう。俺は、画像データを保存し、テキストをメモ帳にコピペする。
『……本当にここまで来てたんだ……』
ハルは左腕の上に右ひじを立て、視線を軽く落とし、顎を支えるような立ち姿で小さくそう呟いた。その様子からは深刻そうな雰囲気を感じた。それが、何に起因するものなのか、この時は知るよしもなかったが。
「付箋の表示ってできる?」
『あ、はい。今出しますね』
俺の声にハッとしたかのように顔をあげ、部屋の奥にある引き出しをガサゴソと漁る。数段探したところで、『ありました!』と声をあげた。そして視界の左上、いつもの付箋の位置に表示される。
『やっぱり、他人の部屋は勝手が違って難しいですね』
「ピコが過ごしやすいように物の配置も決められてるってことか?」
『そうなります。礼斗さん専用に物の配置や様々なものがカスタムされているのかと』
俺は、掲示板に書き込まれた数字を付箋に写しながら、返事をする。全ての数字を写し終えると、AIの部屋を終了した。
部屋が閉じる間際、ハルが困ったような表情を浮かべながら『気をつけてください』と告げた。
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