第18話 部屋

 いつも通りアイチップを装着する。途端、視界が大きく揺らいだ。

 ドンッ。鈍い音を立て、その場に倒れる。

「いったぁい」

情けない声を出してしまう。私は手探りで上半身を起こすと、視界が黒く染まっていることに気がつく。アイチップが視界いっぱいに黒を投影していると言うのだろうか。目を閉じても開けても見えるのは黒一色。音声認識が作動しているかは分からないけれど、AIに呼びかける。

『ピコ、視界の透明度上げて』

微かに視界に光が走る。どうやらアイチップは動いているらしい。だけど、それ以上の進展は見られなかった。私はとりあえず、視界を確保するために手探りでアイチップを取り外そうとする。

「いくら特殊な端末と言っても、外してしまえば、視界は確保できる……」

恐る恐る、指を目に近づける。指が見えないこと、勢いをつければ自分の目を傷つけてしまうこと、今の周りの状況が全く把握できないこと、様々な角度から私の恐怖心が煽られていく。思わず、手を止めそうになる。

「頑張らなきゃ……」

鼓舞するように、そう呟き、手を動かす。

 アイチップに右手の人差し指が触れた。

 途端、視界が一気に開ける。まず視界に飛び込んできたのは、正装を身に纏った私の男性AI、ピコの姿だった。ピーコックブルーの髪と目をジャケットの黒がより引き立てる。周囲を見渡すとそこは、黒い背景に一辺が10センチほどの正方形を構成するように、頭上から足元までピーコックブルーの縦横のラインが光を走らせている。様々な家具や雑貨、服や食べ物に至るまで、分類ごとに整頓され置かれている。そこはまるでアイチップの中にあるAIの部屋のように感じられた。

『いらっしゃいませ、ゆりあ様』

部屋の中央に立つピコがこちらを向いて一礼する。だけど、この仕草は……。

『はい! その通りでございます。私はゆりあ様の初代AIのデータを吸収いたしております』

「……どう言うこと?」

『はい。バックアップデータにございました、初代以降のAIデータを吸収することで、私の行動をより拡張させるシステムが作動いたしております』

「拡張? 私、そんな指示出してないし、何よりAIデータの吸収なんてできないはずじゃ……」

『ええ、ゆりあ様の指示ではなく、このアイチップの製造段階で組み込まれているシステムにございます』

「両親が組み込んだってこと?」

『いえ、ご両親からシステム開発の依頼を受けていた主様が、ゆりあ様のご両親には内密に作業なさいました。ご両親は私がAIデータの吸収ができることをご存知ありません』

「どう言うこと……? でも、私はこれを両親から……」

『そうですね、ご両親がなぜ気づかなかったのかと言うことに関しては、気づかれないように隠されていたからとしか答えようがありません。そもそも、この吸収システムは、バックアップデータを読み込んだ後から少しずつ作用するようにできております。……そう! 真綿で首を締めるように、じわじわと』

「…………」

『怖いですか? 恐怖で言葉も出ませんか?』

意味がわからなかった。確かに、指示を聞かなかくなり始めてからは、AIの切り替えはもちろん、AIに関する設定事項もいじれなくはなっていた。だから、AIなしでは仕事ができない私は、職場でアイチップを付け替えていたのだ。今日は、休日だから、これを使用するつもりだったのだけど。

「……もしかして、『パボ・レアル』のモニター用に生産されたものにも同じシステムが……?」

『そうですねー、そうなります。作用するにはいくつか条件がございますので、全てのアイチップで作動するとは言えませんが』

「その条件は……?」

『内緒です。ただ、ゆりあ様もご存知かと』

私も知ってる? それなら、教えてくれてもいいのではないだろうか。ピコは優雅な動作で私を椅子に誘導する。現実世界とリンクしているのなら、これはVRシステムを使っていると言うことになる。そんなことが……それともこれも、システム開発をしたと言う方が、両親に内緒で組み込んでいたと言うシステムの一つなのだろうか。モニター用の『パボ・レアル』にはこんなシステム無かったはずだから。

 私が椅子に座ると、ピコはコーヒーを出してくれた。拡張モーションの一部だろう。コーヒーに伸ばす腕がデジタル処理されている。なんだか不思議な光景。

『ゆりあ様、ご存知だとは思いますが飲めませんよ。モーションに従った減少はございますが……』

自分で出しておいて、飲めないなんて忠告しなくてもいいと思う。

「わかってます」

『失礼しました』

ピコは一歩下がると綺麗に頭を下げた。

「それで、私をこんなところに閉じ込めて、何がしたいんですか?」

『閉じ込めたですか。妙なことを言いますね、あなたの体そのものは現実世界で自由に動くことができる。でなければ、あなたはそうして椅子に座ることができないはずです』

「確かに、視界が仮想現実の部屋の中というだけで私の体は自由に動かせます。ですが、現実世界の様子を見れず、アイチップの操作もできない現状では閉じ込められていることに変わらないと思うのですけど」

私の返答に、ピコは『確かにそうですね』と口角だけをあげながら言った。彼はこんなに不気味な表情ができるAIだっただろうか……。

『ああ、でもアイチップの操作は可能ですよ』

ピコの言葉に思わず面食らう。

「どういうこと?」

『そのままの意味です。少なくとも、今ゆりあ様とこうしてやりとりができているのは、音声認識を利用しておりますし、視線操作はできませんが、ゆりあ様が指示されるのでしたら、あの男子学生にメッセージを送ることも可能ですよ』

「じゃあ、ピコが私の問いに答えてるのは……」

『はい。AIのコミュニケーション学習の一環です』

思わず力が抜ける。アイチップの操作ができるのなら、この状況から抜け出すことも簡単なはず。

「なら、VRモードを解除、視界透明度を100に」

『ゆりあ様は私と話がしたくないのですか』

「話がしたくないのではなくて、この仮想現実の空間が嫌なの」

『そうですか。ですが、残念です……この空間を抜けた先は、黒一色に視界が支配されてしまいます。そこでは音声操作を使うことができませんし、視線操作も困難を極めるでしょう』

「その黒の透明度を上げることは?」

『ほぼ、不可能です』

「ほぼ?」

『視線操作で、環境設定を起動の後、視界の透明度を100まで上げなければなりませんから。不可能ではありません挑戦すると言うのなら、私は止めませんが……』

どう考えても現実的じゃない。椅子に座っているだけまだいいと考えた方がいいのかな……。

「アイチップを取り外すことはできる?」

『可能ですよ。挑戦されますか?』

食器を磨きながら、挑発的に答える。

「……アイチップの電源を切ることは?」

『すみません、それはできません』

今度は申し訳なさそうに、事務的に答えた。私が「どうして」と尋ねると、この部屋が表示されている間はアイチップの電源は落とせないと言った。VRモードをオフにしてしまえば、音声操作は使えない。そうすると、どこを見ているのか選択しているのかわからない状態の視線操作だけで電源を落とさないといけない。想像しただけで、大変そう。私は諦めて、再びアイチップを取り外すことを試みる。

それを見ていたピコが『残された方は、黒一色に視界が支配されます。ご注意ください』と、警告を出した。

 それから、鏡を使えない仮想空間の中でアイチップを外すべく、奮闘している。デジタル処理が施されている自身の体は、生身の体とは少しのラグがあり、何度か眼球に指先が触れた。通常通りの使用なら気にならない程度のラグであっても、ストレスになることがあるのだと、初めて知った。できれば、知りたくはなかった。少なくとも、こんな状況で。

『だから、鏡が欲しいと言った時に買っておいてくだされば、それほど苦労せずにすみましたのに』

ピコが私に不満を言う。それは、私も今思ってる。男性AIだからとスーツやカジュアル服を着せて喜んでいるんじゃなかった。ちゃんと元に戻ったら鏡を買おうと思う。この状態がまた訪れるとは思わないけど、念のために。決してデジタル処理された自分の姿が見たかったとかじゃないから。断じて違うから。

「よし!」

『諦めたらいかがですか?』

「諦めない」

『そうですか』

今ならいける気がする。そう思い私は、右目に両手を伸ばす。アイチップ独特のツルツルとしたレンズの質感を指先が感じた。

『気をつけてくださいね』

右目に現実世界が戻る直前、ピコはそう言った。

 私は、右目だけを頼りに洗面台に向かうと保存ケースに右目を仕舞った。

「あ……これ、左目外すの大変なんじゃ……」

鏡越しに左目を見る。目は開いてる。それがわかるならなんとかなるはず……。

「そうだよ! 鏡あるし、いける! さっきより簡単なはず」

それから程なくして、私は無事左目のアイチップを取り外すことに成功した。デジタル空間ではない視界。安心して、柔らかなため息を一つ零した。

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