109『手練手管で出たとこ勝負』

「喪えない、っていうなら、そうですね」


 俺の即答に課長の目が丸くなる。美影さんを生かす事、助けること自体に利益があるかどうかはわからない。

 だが喪ってしまえば確実に作戦は失敗に終わる。俺ひとりでどうにかなる相手じゃない事は、こないだの公園で嫌というほど思い知らされた。


「……なるほど、隅に置けませんね、石井さんも」 

「あーいや、そういう意味ではなく!ていうか別に女なんて一言も――」

「あれ?違うんですか?」

「……」

「ほら」


 今までの真剣な面持ちはどこへやら。こちらの逃げを全て読み切ったように先手を打って逃げ道を封じ、いたずらに目尻を下げてにんまりと歯を見せてくる課長にこちらの口は塞がってしまう。

 その顔からは明らかに俺の――というか美影さんもだろう――してほしくない類にあたる勘違いをその脳内で加速させている節がありありと伺えた。


「……だとしても、マジでそういう意味じゃないですから、イヤホント」

「あれ?もしかして照れてるんですか?」

「だーかーら!」


 ……勘弁してくれ。

 さすがにこのタイミングでその路線をゴリされるのは色々な意味でキツイ。とはいえ誤解を解くには伏せておかなければならない数々のカード秘密……それこそ自分の部下が実は赤の他人であることまでを全部オープンしなきゃならない以上、その選択肢を取るわけにはいかない。

 というか仮に全部ぶっちゃけたところで、この勢いだとどこかにこじ付けて『惚れた女性の力になろうとしている』俺像を頭の中でより強固なものにしてしまいそうだった。

 歳関係なく恋愛関係の話で女子がああいう顔していると、こっちとしてはもうみたいなところ、あると思います。


「はぁ、もういいです……さっさと残り終わらせて帰りましょうよ」


 視線を顔ごと逸らして床へと向け、苛立ちと嘆きを息に込めて荒く吐き出す。結局肝心なところは聞けずじまいだが、これ以上イジられ続けるよりマシだった。

 ……というのは話を切った理由としては半分以下で、正直な所これ以上話を広げる事にちょっとした危惧を覚えはじめていた事の方が大きい。

 こっちは一言もそれが女とは言っていないのに、課長は確信を抱いた上でカマを掛けてきた。俺が気付かないうちにとっかかりを与えてしまっていたのかもしれない。

 そもそもこちらの悩みを看破した上で先手を打ってきた課長が、俺から見ても焦りが見え見えの美影さんの異変に気付いていないとも限らない。これ以上話続けてボロを出せば部下同士の悩み、そのふたつの点をイコールで結びつけてしまう可能性すらある。そうなれば事態はより面倒な方向へと転がってしまうだろう。

 そうなってしまう前にこちらから幕を引いた方が得策。そう考えた上での退却だった。


「あはは、ごめんなさい。慌てる石井さんが面白くて、つい調子に乗ってしまいました」

「勘弁してくださいよ本当……」


 課長が未だ半笑いのまま、しかし慌てた様子で頭を下げてくる。俺はそれを諦め半分呆れ半分の心地で目の端に捉えながら、ステープラに針を詰め直す。


「で、課長。次はどこを――」

「話を戻しましょうか」


 そんな俺の耳朶に突然飛び込んできたのは、ふざけた感情を唐突に、そして完全に消し去った声。完全にこれ以上の収穫を諦めていた俺の身体は、反射的にもう一度課長と正対する形を取っていた。

 

 「私の時はあくまで偶然が味方してくれただけです。もしあの研修が違う場所で行われていたら、もしあと一週間遅かったら、今石井さんの目の前にいる上司は、だったかもしれませんよ」


 続いたその声からは、感情どころか温度すらも消え失せていた。

 再び背中に冷たいものが走る。その言葉が意味するものは単に昇進に響いていたかとか、仕事を続けていたかというレベルではなくもっと根源的な……歯に衣着せぬ言い方をすれば、暗に自らの死を指し示していた。


「リミットは本人も含めて誰にも見えない。だから他人である石井さんはまず動いて、を作ってあげる事が一番大切です」

「俺は、どうすれば――」


 消耗に任せるまま、ある日電車の滑り込むホームへと一歩踏み出す。

 あるいは自宅の梁に、自らの体重で千切れない程度の縄を掛ける。

 いつの間にか、頭の中でその姿を課長から美影さんへとすり替えていたのかもしれない。恐怖に駆られるままに縋るような声を出してしまった俺に対し、課長は大きく頷いてから続ける。


「簡単な話ですよ。石井さんがその手を引いて、強制的に最初の基地実家へと連れて帰ってしまえばいいんです」

「言うほど簡単ですか、それ」


 お気楽なその口調にこちらの語尾が上がり、半眼を向けてしまう。やはり仔細を明かせないのがどうやっても弊害となって立ちはだかる。

 当時の課長と美影さん、現状こそ似ているもののその心情には決定的な違いがある。

 彼女は単に帰らないのではなく、

 そして何より、んだ。つまり向けられたその助言は絵に描いた餅、意味をなさない。

 ただ、その理由を隠しつつ、どうやってそれが不可能である事を伝えるべきか――俺が頭を捻っている間に、課長は真に迫った面持ちできっと俺を強く睨む。


「言ったでしょ?リミットは誰にも見えないって。自覚がない以上、たとえ引きずってでも誰かが自分が緩める場所に連れていってあげないと」

「でも本人が帰りたくないって言ってるものを、どうやって――」

「手遅れになってからじゃ、遅いんですから」


 念押しするように、こちらの抗弁を封じる課長。だがそこは相談役のあるべき姿というべきか、続ける言葉を飲み込みぐっと押し黙る俺を見て少しだけ口調を和らげて続けた。


「本人がどれだけ強情張っていても、連れて行ってさえしまえば案外どうにかなるもんですよ。もし角が立ったとして、そこをうまく丸く収められるかどうかはそれこそ石井さんの立ち回りに懸かってます」


 ――なるほど。

 持ち出しの第一歩として、まずは動いた上で生じる問題を無条件に引き受けろって事ですか。


「……わかりました。何とかやってみせますよ。上手くいくかはわからんですが」


 今のところ成功の保証どころかロクなアイデアも浮かんではいないが、最悪文殊のなんとやらってことで院長あたりに相談してみるのもアリだろう。

 根拠なく頷いたこともバレてはいるだろうが、それでも課長は目を細めて首を縦に振った。


「それでいいんです。結果は後からついてきますし、何より『誰かが本気で自分を心配してくれている』っていう事実が伝われば、それもまた自分を省みる取っ掛かりになってくれるはずです」

「果たしてそれで本人喜びますかねえ」


 最近では向けてくる言動に幾分角が取れてきたとはいえ、俺が今美影さんから見てどういう存在になっているのか。そいつが不透明である以上、これから起こす行動が課長のいう取っ掛かりとなり得るのかどうかは、いまいち怪しい。

 むしろ余計な事をするなと胸倉掴まれる公算の方が大きい気もするけど……ここは同じ女性として意見を仰ぎたい。そんな意思を込めて課長を向く――が。


「それは私からは何とも」


 軽く肩をすくめる課長。返ってきた答えは何ともあっけらかんとした、無責任なものだった。


「えー何すかそれ」

「まぁ、進展があったらまた相談には乗りますから……さて」


 こちらの未練たらしい視線を爽やかにシカトしつつ、課長はひとつ伸びをした後改めて机と正対する。

 

「随分と長い休憩になっちゃいましたね。終電になる前に片付けちゃいましょう」


 それまでの熱意とは裏腹にあっさりと話を締め、こちらの返事を待たずしてステープラを手に取る課長。これ以上話を引っ張る気はないらしい。

 まぁ、それも無理はないか。仰ぎ見た時計はもう23時をとっくに回っており、ここいらで本腰を入れないとまたもタクシー帰宅の憂き目に遭うだろう。

 仕方なしに俺も彼女に続き、書類の山に手を伸ばした。






 それからしばらくの間。再びステープラと給湯器の水を抜く音だけがオフィスを支配していた。


「……でも、少し羨ましいな」


 しかし、不意に課長がぽつりと呟き、驚いた俺が思わず手を止める。姿が見えずとも俺の戸惑いが伝わったのかもしれない。


「羨ましいって、何がです?」

「家族以外でそこまで気にかけてくれる男のひとがいるって。私の時は誰もいなかったから」

「そうですか?」


 急に少しばかり上ずった声に対し、俺は胡乱に返す。

 単純にカバーしないとこっちまで死ぬ目に遭うからってだけだけど……

 ステープラから手を離して課長の方を向くが、その顔は再び書類の山に埋もれ、表情を伺うことは叶わなかった。

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