108『レスポンシビリティ』

「私が話を聞いているのは……まぁ、半分は貴方に対する純粋な興味もありますけど、これが上司としての大切な役割、つまりはだと捉えているからです」


 短く置かれた間の後、課長は僅かに上げていた顎を戻し、俺との視線を合わせ直す。そこに少しだけ残念なものを見る表情を伺えたのは、気のせいではないだろう。


「だからこうして時間を割く事にも、自分の恥ずかしい昔を曝け出すのにも納得がいっている。その意味が分かりますか?」

「そうすることが『自分の役割だ』と自覚しているから?」


 ――ええ。

 それは自信が持てず、あやふやなままの口調で紡いだ答えだったが、少なくとも大外しではなかったようだ。しかし課長の反応を見ても正解と断じ得なかったのは、頷いたその顔の曇りが半分も取れていないように見えたからだった。


「そうすることで石井さんの悩みが幾分か晴れて、仕事ぶりが元に戻る。そうすれば私は管理職としての能力を評価される……つまり悩みを聞いてあげる事は私の得にもなるんです」


 ああなるほど。噛み砕かれた説明を聞いてやっと納得がいった。同時に自分の中で小林課長に抱いていた柔和なお人好しといったイメージに少しだけヒビが入る。


「損得勘定の結果、ってことですか」


 案外とドライなんだな。

 その価値観は分からんでもないが、面と向かって言われるとちょっとばかりメンタルに来るものがあった。肩とトーンを落とす俺に、課長は少し寂しそうに眉根を下げる。


「……もちろん、石井さんが思っているように『困っている人を何とか助けてあげたい』っていう単純な気持ちもありますよ?赤の他人じゃないなら、尚更です」


 ――でもね。

 課長は仕切り直すように、虚しさを漂わせる笑みを消す。それを見たこっちもつられて背筋が伸びた。

 小論文と一緒だ。反対の接続詞の後には、本当の主張が来る。


「それだけだと、んですよ、人って。そもそも大人になってから抱く悩みって、大抵『それまでいくら努力しても、解決できずに来てしまった』ものが根っ子にあるんです。自力でどうにもならなかったものを、他人のちょっとやそっとの言動で解決できると思いますか?」


 重い言葉に、俺は目を伏せながら首を振る。

 美影さんの焦り癖、前のめり、そして自己犠牲の心。そのどれもが打ち明けられた過去とその失敗の原因に結びついていたものだった。

 つまりは昨日今日に生まれた欠点って訳じゃない。若き俺達にとって導師とも言えた、美恵先輩との日々をもってしても解消出来ずに残ったウィークポイント。流石の俺も、そいつを今更己の口先だけでどうにかなると思えるほど楽観的にはなれなかった。


「三つ子の魂……じゃないですけど、大人になった誰かを変えるということは、並大抵の事じゃありません。それを理解してなお善意のみでそういう悩みに乗ってあげた人でも、その殆どが途中で半端なまま放り出して逃げてしまう。どうしてだかわかります?」

「一向に変わってくれない現状に、痺れを切らすから?」

「うーん、それもありますけど……」


 ふたたび返ってきたどっちつかずなリアクションは、またも俺の答えが50点以下であることを語っていた。


「極端ですけど、ひとつ例を挙げてみましょうか。石井さん」


 もう半分を補足する代わりに人差し指を立て、課長はそんな提案をこちらに打ち出してきた。すぐに答えを与えず更に考える機会を与えてくれる当たり、者を教える立場としての高い適性が伺える。

 こくりと頷き、続きを待つ。自分なりにない頭を捻って出した答えに三角を付けられては、同意する以外の選択肢はない。


「石井さんには付き合いの取っても長い友達がいます……いますよね?」

「なんでそこ確認取るんですか」

「いや、その方がイメージ沸きやすいので……いますよね。うん、よかった」


 人を何だと思っているのだろうか。慌てて愛想笑いを浮かべる課長に思わず半眼を向けてしまう。

 全く失敬な。こっちにだっているわい……ひとり。

 それも最近まで連絡断ってたけど。

 ともあれそんな奴の姿を頭に浮かべ、目線でさっさと次に行ってくれと促す。


「お互いにとても気が合っていましたが、そんな彼にはひとつだけ大きな欠点がありました。それはどうしても時間にルーズなこと。特に朝の待ち合わせには毎回と言っていいほど寝坊し、貴方自身もその被害に遭ったことが一度や二度じゃありません」

「そりゃあひどい」


 ひとりでに実感の籠った相槌が出る。幸いというべきか、その人物像は例として頭に浮かべた一志と、ある程度の共通点があった。奴もひどいとまでは言えないものの、よくよく待ち合わせに遅れてきたものだ。


「そんな彼がある日『どうしてもこの寝坊癖を治したいから、悪いけど毎朝決まった時間に電話をくれないか』と頼んできました。貴方はその真摯な態度に感銘を受け、それを善意から請け負ったとします」

「俺ならそこに金銭を要求――」

「話がややこしくなるので、そこは100%の善意でお願いします」

「アッハイ」


 話の前提を壊されることを危惧したのか、結構な食い気味で抑止を掛ける課長に気圧され、俺は再び口をつぐむ。


「……しかしその態度とは裏腹に、彼は相変わらず寝坊してばかり。改善の兆しが見られないまま数年がたったある日、貴方の生活リズムに変化が訪れます」

「変化?」

「例えば転職したり、引っ越しでもいい……とにかく、彼が指定した時間に自分が起きている事がとても難しい状況になってしまったんです。あなたはそれでも、彼のためにモーニングコールを続けられる自信がありますか?」

「いや、無理でしょ」


 いくら一志の頼みだったとしても、俺はそこまで我慢強いほうじゃない。というか恐らく半年も経たないうちに、何らかの理由を付けて止めるだろう。

 最初から治す気がなかった。どうしても治らないもんだと諦めを付けたうえで付き合いを続ける。俺と一志の場合意図的にしろ過失にしろ、同じくらいの回数遅刻の応酬を交わす事で言いっこなしとしていた気がする。明言こそしなかったものの、互いの欠点をうまく見過ごすというか……そんな無言の承諾があったからこそ、今日まで関係が続いてくれたといえる。

 もし例に挙げた人物との間柄がそんな『なあなあ』も許さないほどタイトなものだったなら……きっとしびれを切らした時点でそっとアドレス帳から消す。

 即答する俺を見て、課長は当然だと言わんばかりに頷いてから、一旦足を組み替えた。


「では、少し条件を変えてみましょう。同じ頼みをしてきたのが彼の両親や上司だとして、忘れたら多少のペナルティはありますが、毎朝彼を時間通り起こすことで金銭を得られるという『契約』だったとしたら?更に完全に克服できたと認められた場合……100万円――」

「絶対続けます」  

「あっ、はい」


 今度は俺が食い気味になる番だった。一瞬例え話であることも忘れて、決まった時間に電話を掛けてくれるアプリとかないもんかとまで考えを及ばせている自分がいた。

 親友の寝坊に悩まされなくなるうえに金まで貰える。世の中そうそうそんなに美味しい仕事はない。そんな俺に対してちょっと引き気味に笑ってから、課長は咳ばらいをひとつして場を改める。


「それが今、私が話を聞いている理由ですよ。そこに半分『仕事』を噛ませて、責任の担保としてるんです」


 なるほど、解決することで確実に自分の利益になり、逆に放り出せば不利益を被る。だから投げ出さない……契約を付け加えて仕事とするならば、そこに責任が生まれ、何年治らなかったとしても続ける意義が生じるってことか。

 でも、それって――


「じゃ、課長は仕事と関係ない場所じゃ、一切誰の相談にも乗らないんです?」


 彼女の言う通り、あくまで今のは例え話であって、現実にはロハで他人の相談を持ち掛けられる方が圧倒的に多い。

 課長はその度に『責任を持てないから』と断っているのだろうか。人間関係として乾きすぎている考えじゃないか。それ。

 反射的に投げかけた問いに、課長はなぜか顔を明るくした。


「まさにそこですよ。考えてほしいのは」

「……?」

「利益の絡まないところで生まれた他人の問題に、音を上げず、投げ出さず最後まで付き合えるかどうか……それを決めるのはその人が自分にとって『喪えない程大切な人かどうか』に尽きるんです」


 話が先頭へと戻ってきた。

 複数回にわたって繰り返される主張は、その話の中でもっとも言いたい結論を示す。そんな話の持って行き方に慣れた様子を匂わせるあたり、恐らく似たような話を他の部下にもしているのだろう。


「費やすのは時間だけじゃないかもしれない。その人の為ならば自分が何を持ち出し、失ったとしても納得がいく……それが、持ち出しの覚悟です。さて石井さん。あなたにとってそのひとは、本当にそんなひとであるといえますか」


 またもどこか確信めいた様子で、課長は『ひと』という単語に独特のアクセントをつけ、俺をじっと見据えてきた。

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