110『棚ぼたからの一本釣り』
――翌日。
出社してすぐ、俺達営業部隊は会議室へと集まるようにお達しを受けた。
課長が交代して初めての事ではあったが、三々五々席に着くその顔には突然決まった朝イチのミーティングに対して疑問の色は窺えない。
俺を含んで皆一様、薄々その理由には察しがついているということだろう……珍しく最後に、遅刻ギリギリで入ってきた美影さんを除いて。
「……ねぇ、また貴方何かやったの?」
……演技じゃなくて素だなぁ、これ。
これまた珍しく眠たそうな目を擦りながら耳打ちで訊ねてくる彼女に、呆れ半分で返してやる。明らかに睡眠が足りず、疲れの取れ切ってないその顔を改めて目の当たりにすると、仕事に身が入ってないっていう課長の見立ての正しさがひしひしと伝わって来る。
「アンタ、本当に大丈夫っすか?」
具体的どころかそもそも解答ですらない俺の返しに、美影さんが疑問の色を深める。大方、この仕事と関係のない所で夜昼となく動いているせいで、ろくすっぽ眠れてないのだろう。そんなんだから課長の話を聞き逃すんだよ。
「揃ってますね」
っと。噂をすれば――ではないか。
俺が美影さんから視線を外したタイミングで、普段より表情を引き締めた小林課長が現れ、会議室のドアを閉めた。そのまま部屋の最奥へ歩いていき、ホワイトボードの前に立った課長は揃い踏みした全員の顔を見回した後、コホンとひとつ咳を払う。
「おはようございます」
やや気を張ったようなその挨拶に、全員が目礼で返した。始業のチャイムにはまだ時間があったが、そのルーティーンだけで互いが互いに仕事のスイッチを押すような感覚がある。
少し前までの――日常のありがたみを知らない――俺ならば、ただそれだけでうんざりしていただろう。しかし今となっては次に味わえるかわからないこの緊張を、どこか嬉しく思っている自分がいた。
「さて……本当に色々ありましたけども、いよいよ本日より新しく割り振ったエリアで本格的に活動を開始していこうと思います」
やっぱりか。
予想通りの発表ではあるが、そこに新鮮味がないなどと落胆する者は誰ひとりいない。
変わった環境を新たなチャンスと捉え、あるいは
『完全な一本立ち』という未知の世界に飛び込むことへの重圧と不安、それとちょっとの期待に胸が覆われ、ひとりでに口を真一文字に閉める俺。
そして――
「新体制へと移行するに際し、私から特に言う事はありません。皆、本社エリアでの経験は私よりも長いでしょうから、むしろこっちが教えて――」
「……えっ?えっ?」
「……三吾さん?」
普段の聡明さをぜんぶうっちゃったかの如く、周囲を見渡しただただ困惑する美影さん、いや、三吾美恵に対し、課長もまた困惑の声を返していた。
「もう、言ったじゃないですか」
一瞬の間の後、話を腰を折られてしまったことに、課長はわざとらしく口を尖らせる。とはいえ未だきょろきょろとあたりを見回す彼女へ向かって、それ以上に咎める声は上がらなかった。
それも俺からすれば当然のことだった。昨日の話に出た通り、本人の変調を見逃していなかった課長はどこかでこのリアクションを予測していただろう。
他の面子に至っては新鮮にもほどがある『三吾美恵の狼狽』をただただ物珍し気に眺め、その視線には蔑視どころかちょっとした心配の色すら伺わせている。
「はは……」
事情と本性、いや素性と言った方が正しいか。
すべての内幕を知っている俺からすれば、そいつは単に『月島 美影』としての地金を晒したに過ぎない。
最低限、後でカバーはしてやる。
そんな前提を免罪符にして、この状況に思わず俺まで苦笑を漏らしてしまった。そいつに周囲が同調したせいで微妙に緊張の糸が緩み、一転してどこかふわふわした空気が漂う。
「月半ばを目途にエリアを新しくするって……といっても、元々他より広い三吾さんの範囲はほとんど変わりませんけど」
「あ、そう、でしたね。申し訳ありません」
「まぁ、変わらないからってあまり重ねて言わなかった、私の落ち度でもありますね」
それは俺とは違ったフォローの形なのだろう。課長はさりげなく自分の非にすり替えて軽く頭を下げる。
元からそんな空気は帯びていないとは言っても、目上の人間が頭を下げてしまえば、それより下の同僚たちが目くじらを立てられなくなる。
「……そうだ。それなら三吾さんはしばらく、他の人のカバーをお願いできますか?」
そしてもちろん、失態そのものに対するペナルティも添えておく。彼女の言う通り、営業エリアに変化のない三吾美恵には、新たに挟み込まれるタスクはない上、
いわば形だけの信賞必罰。だがそれで文字通り、完全に他の人間への示しを付けた形を作る。前任の唐津課長とは違い、剛ではなく柔を以って人を取りまとめるその姿には、明らかに彼以上の才気が匂い立っていた。
「もちろん私も頑張りますけど、何分顔を覚えてもらう所からだから――」
「わかりました。私にできる範囲ならば」
「三吾さんについてもらえるなら、百人力っすわ!」
「お前は単に一緒にいたいだけだろ!」
「嬉しい申し出ですが、遠慮しておきますね」
調子よく鏑木先輩が乗っかり、それに誰かがツッコミを放って場がどっと沸く。
そんな一式の
んじゃまあ、こちらもカバーついでに――
「はい、課長」
ひとしきり笑いが収まったタイミングを見計らって、さりげなく挙手する。
「どうしました?石井さん」
「そういうことなら早速なんですけど、三吾さん今日自分のカバーにつけてもらっていいですかね?」
飛び出したこの一言に、それまで冷やかしの声を薄笑いで受け流していた三吾美恵が驚いた様子で振り向いてくる……ついでに佐原先輩がしまった!という顔を浮かべて睨んできたが、そいつは今は無視しておきましょう。
「うーん……私が見る限り、石井さんはもうひとりでも大丈夫と思いますが」
少し困ったように、同時に残念そうに課長は眉根を下げる。
もしかしたら、自分の教え方が悪かったとでも勘違いしているのかもしれない。そう受け取ってもらうのはこちらとしても気の毒に思うので、一度強く首を振っておく。
「いえ、充分教えてはもらったんで、基本ピンでやってみます……けど、それで絶対万一が起こらないって言い切れる保障はないじゃないですか」
「それは、確かに」
「でしょ?そこでお客さんに迷惑掛けない意味合いでも三吾さんが控えていてくれたらなあって……イヤ本当、着いてきてくれるだけでいいんで」
――こうは言っているが、実際のところトラブっても口八丁手八丁でどうにかなる目算はある。
なんなら頭の中に焼き付いた鏑木の教えをいちいち引っ張り出してやればいいだけの話だ。
重要なのはそこじゃない。口にした通り、着いてきてくれることが大事なワケで。
「どうです?三吾さん」
自分の慧眼にはそれなりの自信があるのだろう。すぐには首を縦に振らなかった課長が、俺から視線をずらして三吾美恵に意見を求めた。
さて、どう出るかな……追従してそちらを向くと、そこには一瞬の迷いの後、思い出したかのように顔を歪める彼女がいた。
……しまった。
「どうして私が――」
「いや、そう言わずにお願いしますよ三吾パイセン」
被せるおどけた口調。
だが見つめるその目は、全く笑わず真剣に。
そしてその直後に、ある一単語を意味する唇の動きをだけを付け足しておく。
「……仕方ありません。普段の些事はさておき、困っているのは事実ですから」
「では、今日は三吾さんが一日同行するということで。良かったですね、石井さん」
急変したその態度に一瞬首を傾げたものの、纏まってくれた話に課長は微笑みをこちらに向けてきて、俺もまた安堵をもって頷きを返した。
「えーぇ。本当に助かりますよ」
……伝わってくれて、ね。
俺が美影さんに向けて放った声なき声。その特異な経歴の中に読唇術の心得が含まれているかは知らない。
だが、現状目の前の仕事以上に自分を夢中にさせる存在そのものを示すワードは、見逃しようがなかったのだろう。
カダーヴル。
短いその言葉は極上の餌へと変わり、目論み通り美影さんの喉へと釣り針を引っ掛けていった。
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