106『BASE』

「実家って、いわば自分にとって最初の基地じゃないですか」


 空になったお茶のボトルを手に取り、課長が立ち上がる。その細い指の間にはいつの間に取ったのか、とっくに飲み干し脇に置いていた俺の分まで挟まれていた。


「食事の心配も、家賃の心配もない。生きるリソースに意識を割かなくてもいい場所。まぁ子供時代過ごすんですから当たり前といえば――」


 オフィスの端に備え付けられたゴミ箱まであと数歩に迫った課長が、一度言葉を切って歩を止める。誰かが開けっぱなしにしていたその口へと狙いを定め、続きの代わりに出した小さな掛け声に乗せて、続けざまにペットボトルを放った。


「そうなんですけど」


 描かれた軌道で確信を得たのか、入ったかどうかを確認もせずにこちらを振り返る課長。俺が返した生半な首肯と同時に、勢いよくぶつかったプラスチック同士が乱雑な音をふたつ立てた。

 かくして役目を終えたボトルが収まった、還るべき場所。そこに収まる限り、飲み干され今や誰にとっての価値も意味も持ちえなくなったとしても、拒まれる事はない。

 むしろを良しとされる。もしかしたらそんな例え話を含ませたかったのかもしれない……いやそこまで彼女はシニカル皮肉屋ではないだろうけど。


「要するに、ぬるい環境に戻るのは毒になる。みたいな?」

「ええ、そのまま腐ってしまいそうな気がして」


 色んな意味での確認も兼ねた俺の質問に、課長は椅子を引きながら頷いた。 

 なるほど『腐る』か。夏場のゴミ箱がもう元が何だったのかすらわからない液体が入ったペットボトルで満たされてる、なんてのはよくあること。

 なかなか妙なダブルミーニング、やっぱり彼女なりの寓話だったんじゃないのか。


「食べたごはんを全部戻すようになってもまだ、毎日必ず会社には顔を出していました」


 光景を想像して、思わずゾッとする。

 掃除も生活の基礎だが、食事まで疎かにするってのはもう、生命の基礎を自ずから投げ捨てているのと同じだ。

 最早自分でも歯止めが利かなくなっていたということだろう。そんな毎日が続けばどうなるか――その答えはすぐに語られた。


「でもある日、研修の帰りにたまたま地元を通る電車に乗っちゃって……気が付いたらそのホームに立ち尽くしてました。そのころはもう周りを見返してやるって何か月も休んでなくて、でも仕事は思うように進まなくてで……気付かない間に限界を迎えていたんですね」

「そのまま、実家に?」


 ええ、課長は頷くと、上手い言い回しを探しあぐねるように間を開けて、それから少し照れ臭そうにそっぽを向いて頬を掻いた。


「……いざ家について、ドア開けて両親の顔見た途端ですよ?いきなり立っていられなくなってね……糸が切れたみたいに玄関にへたり込んじゃったんですよ。私の身体」


 しぼむ様な口調で続けた課長は目を落とし、斜めに揃えていた膝の頭を撫でる。 


「そこで初めて、ああ、自分はこんなにもぎりぎりだったんだって自覚しました。動けなくなるなんて初めてで……そのままびっくりしている2人の前でびーびー泣き出しちゃって」


 ――情けないですよねえ、いい歳した大人が。

 こちらが頷くことを前提とするような同意を求めてくる課長へ、俺は即座に首を振る。


「限界超えちゃったら、皆そうなると思いますよ。別に恥じる事じゃ」

「ありがとう。多分、その時の両親も同じ事を思っていたんだと思います。ひとしきり泣きはらした私を、父は黙って抱え上げてくれて、家の中に運んでくれたんです」


 さすがにここまでの醜態を他人に話すのは照れがあるからなのか、課長は語尾をもごつかせながら背を丸める。だがその語り口自体は勿体ぶって引き出しの奥底から宝物を見せるような、気恥ずかしさよりも尊さに満ちたものだった。


「母なんてその日中、ソファに寝かされた私から離れなくて……家を出る前に並べた文句がを恥じましたよ。どれだけ意地を張って、境遇を変えてみたところで、結局はずっとこの人たちの子供なんだなって」

「あー……」


 喉から出掛かった軽薄な同意を飲み込み、とりあえずの相槌だけを返す。申し訳ないが俺はそこにまだ半分くらいしか同意できない。

 代わりに彼女美影さんならどうだろうと、思いを巡らせてみる。

 置かれている場所は恐らく唯一無二で、世間の常識というものの対極にいる。何せいつか蘇生薬が完成し、世の中の死が不可逆であるという過程がひっくり返るその前に、として両親の前に立つのだから。

 はたして親子の間柄は、その道理を蹴っ飛ばして迎え入れてくれるのだろうか。


「でも、結果としては却ってよかったと思います。丁度いい具合にを巻き直せたんです。どれだけダメになっても自分には帰れる場所がある。ならばまだいける。何より無理をし過ぎて壊れてしまえば悲しむ人がいてくれるって具合にね」

「それからは?」


 元気な彼女の顔がここにある以上、それは愚問だと分かってはいる。その上で訊ねた。

 ここはオチまでしっかりと聞いておきたい。予期せぬ帰郷を果たした末に課長が抱いたその思いこそ、今の美影さんに足りないものそのものだったからだ。


「2日泊まって、その後出社一番で上に『この量は無理です!』って叫んであげましたよ」

「うわっ、周りの反応とか怖くなかったです?」

「それがそうでもなくて、元々周りも無茶をやらせてる自覚があったみたいなんですね。その上で一向に私が断らないから『仕事を横取りされたくない女』だと勝手に思われてたみたいで……その一声であっさり本社から人が回ってきて分担見直し。結果、人出が増えた分その店では見た事もない数字が上がりましたとさ」

 

話を締め、課長はぱん、と手を鳴らす。思った以上に重たい話を聞かされた俺は、気付けば彼女に改まって向き直っていた。


「申し訳ないです。しんどい記憶思い出させちゃって」


 目を丸くした彼女の反応を待たず頭を下げ、そのままたっぷり数秒を待つ。どちらかの椅子がぎっと軋む音がした。


「そういう時はありがとうございました、ですよ?」


 それをタイミングにして頭を上げると、課長の顔が僅かに近くなっている。嗜めるようにゆったりした口調と一緒に眉根を下げるが、そこには決して不快の色は見えない。単に予想外のリアクションに困惑しているようだった。

 

「私にとっては丸々、いい思い出になりましたから……それより」


 課長はそこで笑顔を引っ込め、改めて声と表情を引き締める。

 そこには誰かの子としての幼さが消え、代わりに誰かの上に立つ者として部下を慮る、真剣な面持ちがあった。

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