105『よく研いだ刃は折れやすい』
「私、あんまり皆みたいにすらすら仕事ができない質で」
「いやいやそんなことないでしょ」
アンタがそんな評価だったら俺はどうなるんだ。
ほとんど脊髄からダイレクトに出したその否定に、課長はちょっとだけ照れ臭そうに頬を緩めて、ゆっくりと首を振る。
「あはは、そう言ってくれると嬉しいです……そりゃ私自身、今でこそ少しはましになったと思ってますよ?」
――でも……そうですね。
俺から視線を外し、お茶をひと口飲み下す課長。飲み口から離した唇からふうっと軽く息を吐き、遠い記憶を手繰るように声のテンポを落とす。
「支店長になる直前はもう、ひどいもんでした。タスクに自分のキャパが完全に追いついてなくて」
「じゃあ、こんな時間まで残るのも殆ど毎日、とか?」
さっき見たばかりの時計を再びチラ見してしまう。もう外の喧騒すらとうに遠のき、夕食どころか終電の時間を気にするレベル。
もはや家にいる時間の方が短い暮らし……流石にそれは有り得ないと思うが、もうしそうならば当時の生活を想像するだに気の毒だ。
「いえいえ、まさかぁ」
こちらの意図がちゃんと伝わったのか。それともこんな簡単な事聞き返すなよって意味なのか。こちらを嗜めるような口調で否定しながら、課長は浮かべるその笑顔に少し軽薄さを添える。
「ですよねー。やっぱり流石に――」
「こんなの、まだ早い方でした」
……そんなんトラウマもんですやんけ。
絶句する俺を尻目に、まるで今となっては良き思い出だと言わんばかりに慈愛に満ちた遠い目をする課長。
仕事は忙しい奴に頼めって言葉があるけど、管理職に近づくほど才覚があるとこの会社では逆に不幸になるのかもしれない。
全部終わったら、やっぱり転職考えようかな。
「午前様も当たり前で、泊まり込みも珍しくなかった。そうなれば洗濯や掃除……家の事なんてとてもできっこない。たまに帰れてもゴミ溜めの真ん中で寝るような感じでしたよ」
そこは思い出したくない記憶なのだろう。彼女は口の端に苦みを浮かべ、遊ばせていた手の先でスーツの裾を握りながら軽く頭を振る。その度に癖ひとつなくまとまった長い黒髪がなびいた。
その佇まいといい、話をオフビートな脇道に逸らしながらも決して崩さない姿勢の良さや仕草といい……
「いや、眠れます?それ……」
「知ってます?人間追いつめられてくるとどんどん『鈍って』くるんですよ。そうなると部屋の汚さなんて全然見えなくなります。感覚も同じみたいで、一度夏場に生ごみ捨て忘れたの気付いてなくて大量の――」
「いや、もういいです解りましたからそれ以降はマジで勘弁して下さい」
嫌なリアル感にそれが真実であると裏打ちされたようで、頭の中で想像が広がりきる前に抑止を掛ける。いくら過去とは言え、これ以上聞いていたら抱くイメージがまるっきり変わってしまいそうだった。
「……ていうか、そんなになる前に、仕事ほっぽり出して逃げ出そうとか思わなかったんです?」
「言ったでしょ?鈍って来るって。もう逃げるって発想自体浮かばなかったんです」
ひとつの発想にとらわれるあまり、脇道を見逃す。
その感覚には覚えがあった。ちょうど最近そのせいで人生初の留置場一拍の刑を経験したばっかりだったから。
とはいえ軽々に同意してその話をするわけにもいかず、結局はただうんうんと首を縦に振る事しかできないんだけど。
「でも、今考えると無意識に意地を張ってたのもあるでしょうね」
「意地……ですか?」
ええ、と課長は一拍置いて、後ろ頭をヘッドレストに預ける。天井を見上げるその顔は、相変わらずどこか遠くを眺めているように見えた。
「せっかく就職して家を出た以上、こんな情けない姿で帰るわけにいかない、って。実際独り暮らしどころか総合職に就いた事自体、最後までいい顔されなかったから」
「え、なんでですか」
――就職決まれば、普通は喜ぶもんじゃないの?
女姉妹もいないうえ、そもそもが干渉を互いに断っていた俺にはそこで渋い顔を浮かべるロジックが解らなかった。
「うーん……石井さん、女の子のご姉妹いないでしょ?」
思わずノータイムで問い返す俺に、逆に質問をぶつけてくる社長。問われたその意図も見当がつかず、頷きながらもいっそう疑問が深くなる。
「うち、お父さ……父が結構前時代的な考えを持ってる人で」
「あぁ、女は家庭に入ってナンボみたいな?」
実際誰かが言っているところを見た訳じゃないけど。漫画とかドラマの知識で得心する俺を見て若干の引き笑いを漏らしてから、課長が続ける。
「……身も蓋もない言い方をすれば、まあそうです。実際母がパートに出る事すら許しませんでしたから。お金に余裕がある家じゃなかったのに」
自分がそれで不幸になっていないから、他人にもその基準を押し付ける。それが手塩に掛けた実の子ならば尚更踏み外してほしくないから、もはや言下の強制を促す。
親にありがちな考えと言えば、まぁそうか。
そいつを義務教育も終わらないうちにいの一番で踏み外してやった俺では、当時の課長に寄り添うことは出来ない。さっきとは違った意味合いで想像の枝葉を止め、ただ続きを待つ。
「私が流石に大学に行くのは許してくれましたけど、それも自立のためじゃなくて、仕事先で結婚相手を探して20代のうちに寿退社するからだろうって勝手に思われてたみたい」
「なんか、勝手な話ですねえ」
勝手に頭の中だけでレールを敷いておいて、いざ逸れたらおかんむりとか。
肩をすくめた俺を見て、課長は大きく頷いて続ける。
「いざ就活する段になってその話が出て、嫌だって突っぱねたら何て言ったと思います?『女の能力、なにより体力じゃあ十全に仕事は回せない。何故かって?社会はそういう風に出来てるからだ』」
「うへぇ」
それは父の物まねなのか、声を低くして瞳を座らせた課長。それに乗ってあげる形で当時の彼女を慮ったリアクションを返すと、すぐに表情を戻した課長が今度は苦い顔をする。
「当然、納得なんてできませんでしたよ。事実
一旦言葉を切った社長は俺を伺うようにチラ見したあと、少しだけ沈黙を挟んだ。
頭の中で何かが上手くいかなかったのか、結局濁すような口調で続ける。
「ちょうど今みたいに、ひとり欠員が出たんです。同じ営業所の同期がいきなり退職しまして、彼が受け持っていた仕事がそのまま私に回って」
「んな無茶な――」
今の俺達みたいに再配分を行うのが普通でしょう。そう続けようとした言葉を途中で呑み込む。
頭の中では以前引っ越し先を探していた時に調べた、うちの支社の分布図が浮かんでいた。全国津々浦々を網羅するネットワークの中には、人員が充分に足りてない営業所もあるのかもしれない。
加えて俺は紆余曲折あって、未だ本社以外の勤務を経験していない。それこそ思考の押し付け――勝手に有り得ない事と判断を下すのは早計だろう。
「父の懸念が実際に的中してしまった。でも
「負けず嫌いなんですね」
そいつは細い体躯に見合わない反骨精神というべきか。
垣間見えたその性格の意外さに、驚きを隠した笑いをもって返す。
でもこの反発の仕方は、美影さんよか俺に近いような……相談する相手、本当に正しいのかこれ?
過ぎったその疑いに答えるようなタイミングで、課長は静かに首を横へと振った。
「……違いますよ。本当は怖かったんです」
「怖かった?」
「一度家に帰って家族の顔を見たら、自分の中で頑張ってやるって覚悟が崩れちゃう気がして」
――あれ?
そんな状況、どこかで見聞きした覚えがある。
疑いは杞憂に終わってくれるかもしれない。ここまで話込んでようやく、課長が助力を名乗り出た理由が見え始めた気がした。
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