103『プライオリティ』
社長の背中を見送ってからたっぷり10分、紫煙をゆっくりと燻らせてから席を立つ。もはや昼食というよりも、早めのおやつを食ってましたとでも言ったほうが適当に思えるほどに時間が経っていた。
置き忘れそうになった端末を鞄に突っ込み、レジの前に立つ俺へと店員が怪訝そうな目を浮かべてきた。こちらもその意図を読み取れずしばらくの気まずい沈黙の後、先に会計を受け取っている事を告げてくる。社長は信賞必罰が云々と言っていたが、これもその一環なのだろうか。ともあれ給料日前におよそ3人分プラスアルファの軽食代が財布から出ていかなかった事には純然たる感謝を浮かべておく。
「ありがとうございました」
少し眠たげな店員の声を受けながら外へと出れば、早くも薄い夕暮れの色を忍ばせた空と、街路樹から落ちた枯葉を舞わせて吹き付ける風。その乾き具合と冷たさは微かだが、確かに秋が終わりに向かっている予兆を帯びていた。
『君が自然とそこに近づくには、ちょうどいい口実だろ?彼女を現世に繋ぎ止めるには、もう一本くらい鎖があってもいいと思わない?』
『そりゃまあ、そうですけど』
――とは言ったものの、どーするかね。
鼻をひとつすすってから会社へと戻る道を歩き出し、去り際に交わした社長とのやりとりを思い出す。
彼が言うには美影さん、美恵先輩と入れ替わり――いや、二人一役って言った方が正しいか――を済ませた後、一度たりとも自身の家族の住む場所の近くに足を向けたことはないらしい。
無理もない話だろう。
迂闊な行動で計画がお
……まぁ、それはいいとして。
拉致られた美影さんを助けて、家に連れていった日の朝を思い出す。昔の話を聞く中で、彼女は確かに憧憬を滲ませては、いた。
だが決して解消する事のないそのホームシックを抱え続けてなお、数年にわたり家へと戻らず、家族の顔も見ないまま時を過ごしていた事実。そこから見える意思の強さを前に、歩きながら思わずうなり声を上げてしまう。
俺が何の工夫もなしに真っ正面から家族と引き合わせようとしたところで、覚えのある風景が見えてきたあたりで踵を返されて終わりだろう。生半可な気持ちで美恵先輩の願いを叶えようとしてないことくらい、俺にだって理解できる。
……だとすると、そもそも
「あ、見つけた!石井さん!」
「げっ」
袋小路に入り始めた思考を寸断するような、鋭く高い声。いつの間にか地面を見て歩いていた顔を上げて振り返ると、そこには目を精一杯吊り上げながら、しかしどこか迫力の乗りきらない怒り顔を浮かべ、大股でこちらに向かってくる小林課長の姿があった。
「どーこで油売っていたんですか!外回る時間なくなっちゃったでしょ!」
胸に頭突きしてくるんじゃないかって勢いで距離を詰めた課長の、肩まで伸びる黒髪を震わせながらの怒鳴り声に、慌てて鞄に入れておいた端末を引っ張り出す。
……着信、13件。
社長、上手く言っておいてくれたんじゃないんスか。
天を仰ぐ手を引っ掴んできた課長は、文字通り俺を会社へと引きずり戻していった。
※ ※ ※
積み重なる書類から逃げたい一心で顔を窓に背けると、いつの間にかとっぷり陽が暮れ――どころか、遠くに見えるビルの明かりがひとつ、またひとつと消え始めていた。
「手、止まってますよ」
「ハイスイマセン」
ファイルの山を挟んで、課長の辣言がぴしゃりと俺を刺す。お互い顔が見えないくらい資料が山積みだってのに、どうやってこちらの頭の動きを察知したのか……あ、窓に映ってら、俺の顔。
課長の目の付け所に感心している間に、伝わって来る圧が一段と強まった。慌てて顔を机に戻してホッチキスを握り直す。
そして再びオフィスの中を、紙を針で留めるパチパチという音だけが支配する。午後の仕事をブッチした罰としてかれこれ夕礼終わってから3時間以上、来週の会議に配られる資料作りに従事させられていた。
内容の骨子は課長が作り、俺がタイピングが苦手な彼女に代わって打ち込み。資料が完成したら後はひたすら紙綴じ……会社が抱える人数が人数だけに、最後に残った終わりの見えないこの単純作業は、一番心に来るものがあった。
別にこの作業や残業自体に嫌な気持ちがあるわけではない。ペナルティという名目がなければこの量を小林課長ひとりでやるつもりだったらしい。
大した技能のない俺が色々と気を遣ってくれているひとの手伝いができる。そのこと自体はむしろ喜ばしいまであった。
ただ重ねて、留じて、左から右へ。以下繰り返しのライカ刑務作業。後戻りはないといえ、本当にいつ終わるのか――
「……このページ、逆さまですよ」
「えっ、うわ、どっからだろ」
後戻り、あったわ。
確認を怠った自分を呪いながら、右の山を崩して確認すると、どうも30部ほど前から全て途中のページを上下逆に止めていたらしい。
こっから針を抜いて、整えて、また閉じ直して……いや、集中がいつから切れていたか知れない。他にミスがないか全部確認するのが先か――
「いや、コレ絶対終わんないですよ……」
想像だけでうんざりしてしまい、とうとう上半身を机に投げ出す。音を上げた俺を皮肉に祝福するかのように、紙切れが数枚舞い上がって後頭部を覆った。
「なんでこのご時世に紙ベースで会議の資料作んなきゃなんないの……」
疲労でショボつく目をこすって呻く俺を見て、課長は手を止めて小さく息を吐く。
「さっきも言ったでしょ?堂々と喫茶店でサボっていた罰だって……にしても、どうしていきなり」
言葉尻に付け加えた、少し残念そうな、そして寂しそうな口調に胸が痛み、紙の積もった頭を起こす。
「少なくとも私が来てからは、ずっと真面目にやってくれてましたよね。どうして前任の唐津課長があれだけ辛辣な評価してるのか、不思議に思うくらいだったのに」
「いや、サボりっていうか……なんて、いうか」
言葉を濁す俺に、課長はその高い小鼻から長い息を漏らした後、雑にファイルを脇へとどけた。その腕を戻す勢いで椅子ごと向きを変えて、こちらに正対してくる。
「何か、考え事でもあるんですか?仕事を二の次にしてしまうくらい、大切な事?」
少し身をかがめ、課長は背を丸める俺の目を下から見上げてくる。単に言葉としてなら、それは部下への一般的な話題振りにしか過ぎなかったのだろう。だがそこであっさりと正鵠を射られた俺は言葉に詰まり、その反応をもって彼女に確信を与えてしまう。
「……実は」
すこしおどついた雰囲気を演出しつつ、切り出してみる。
……ここで下手に否定しても尋問が続くだけか。ならばいっそ――主語が美影さんであることはぼかしつつ――正直に話してみるのもひとつの手かもしれない。
目標を持って働いている課長は、すなわち目標の為に邁進する美影さんに属性が近い、と言えなくもない。少なくとも女性である分、俺よりは属性として近いものもあるだろう。
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