102『古びたくさび』
むせそうになる喉奥を無理くり必死に抑えつつ、必死に口元を拭う。そんな俺を見て社長は不服そうに眉根を潜めた。
複雑に歪んだその顔は相変わらず不真面目さを前に出しながらも、どこか本気で耐えられないものを覚えているようにも伺える。
「なんだよー、僕だって一応医療従事者のはしくれよ?まぁ端くれって言うにはちょっと図体でっかいけどさ」
「そういやそうでしたっけ」
――なかなかに煽りよるわ。
こっちとしては自慢を完全に無視した上で単に出方を伺っただけなのだが、俺の返しに対して社長は不服を返し、口の端から息を漏らす。
「……僕の目的のために必要があるなら躊躇いなく死んでもらうけど、そうじゃないなら出来る限り生きていてほしいと思う」
静かな口調でそう続けてから、社長は顔を逸らした。
目で追いかけた彼の視線の先には、窓辺に飾られた薄藍色の花が少しだけ垂れた頭をこちらへ向けている。薄めた瞼と軽薄さを潜めた表情はいつの間にか和らぎ、俺は無意識にその憂い顔へ、いつか見た美恵先輩のそれを重ねていた。
父娘。喩え信条に対して真反対の舵を切っていても、血の繋がりまでは否定できないということだろうか。
「……長っがい但し書きがなけりゃヒューマニストっすね。多少は尊敬出来るんですけど」
「いや、どっちも同じだろ?」
ふと除いたメロウさから気を逸らすついでで浮かべた、皮肉な笑いが剥がれなくなった。
彼の言葉があまりに意味不明で、思考と表情が固まった俺を見て、社長は小首をかしげる。
そこに一切嘲りじみたものを感じられないあたり、俺にとって全く繋がらないその返しは彼にとっては至極当たり前の論理ということなのだろうか。
「何すか、それ」
「僕の為に死ぬってことは医療の進歩のために死ぬって意味だ。本人1人よりもより多くの命を救うことに繋がる。むしろ無駄とは対極の位置にいるさ」
「よく言うわ……」
訂正。
やっぱりこいつは――いや、こいつも――ネジが外れていた。この話題にマトモに取り合うだけそれこそ無駄だろう。
天才となんとか、なんとかと刃物ってやつだ。
「ま、そういうわけでこっちは捕捉を続けつつも、動くのはあの子のメンタルを何とかしてからかなって思っているわけ」
幸いこちらが何か口にする前に、社長の方から話の軌道を戻してくれた。もはや彼のズレを追及する気も失せていた俺は、これ幸いに相槌を返して乗っかってやる。
「どちらにしろ今は、彼が完全に戻れない所に行ってしまうのを待つしかない段だしね。その間にそっち方面のケアをできればな、っと」
「こっちもちょうどこないだそれを院長と話してて、あの人になんとか見返りと、その先の目標が出来ればなって」
「ああ、聞いていたよ」
……へ?
半開きの口から間抜けに漏れた俺の声に、社長はそれが看破されていない事心底意外そうな顔を浮かべた。
「いや、ジムの監視カメラで丸聞こえ。あそこは元々僕達が作った遊び場なんだ。それくらいできて当然だろ?」
言われてみれば施工主が全容を知っているのは至極当たり目の事だ。監視カメラの遠隔ログインくらい出来ない方がおかしいだろう。
……いや、待て。
院長はジムでも堂々と俺達と方針について話していた。という事はそこで彼が口に上らせる話題は聞かれても全く問題ないと思っているのだろうか。
あるいはいくら袂を分かったとはいえ、互いに決めた事は破らないって信頼の欠片がまだ残っているのか。
「信賞必罰が僕の信条でね。君が変な脅しを掛けなくても、事を成した暁にはそれくらいの我儘は聞くつもりだったよ。勿論、ある程度の不自由は強いるけど」
「不自由?」
「彼女が美恵以外の誰かとして再びこの世に戻るにあたっての色々、さ。さすがの僕でも一度死んだ――ことにした――人間の戸籍を元に戻すってのはちょっと難しい。世間的にはあくまで別人になってしまうけど、大事なのはそこじゃないだろ?」
「……それを、彼女が望めば、なんですけどね」
小声で漏らす俺に、社長もそうだねぇ、と追従する。
本人のいない所でごちゃごちゃ気遣いを練ったとしても、そこにはどうしたって虚しさが残る。
それはたとえば、今考えもつかないウルトラCを以って彼女が『月島美影』としてこの世に舞い戻る手段を用意したしよう。だとしても彼女が薬の完成、イコール美恵先輩の蘇生を自分の人生における
無用の長物に過ぎないからだ。
「そもそも、美影さんがこの後も生きていたいって思う理由を、何かしら補強してやらなきゃいけないんだよなぁ」
あるいはそいつを待っていたのか。
改めて残る課題を確認する俺を見て、社長は一度頷くと空になったカップを戻した。そうして空いた左手は机ではなく、傍らに置いた鞄へと伸びていく。
「そこで、この地図の出番って訳」
開いたジッパーから出てきたのは俺の手より少し大きいくらいの端末だった。こちらに目を合わせたまま軽やかに指を動かし、やがてこちらへ画面を向けてくる。
「あれ、これ営業割り当て……もしかして社長が変えたんですか?」
「お、自分の端末も出さずによく気付いたね。ご褒美をあげやう」
にんまりと笑みを浮かべた社長は凝りもせずに店員を呼びつけ、再びお代わりのコーヒーをふたつ頼んだ。付け足すようにケーキを追加したあたり、俺の分をためらいなく食べつくした返礼も込めているのだろう。
……つっても、菓子ひとつでこっちは収まらない。
「ま、本来はこんなもん、課長権限の雑務なんだけどさ」
「……見た時から思ってたんすけど、こんなとこにめぼしい取引先候補なんざないでしょ……何、嫌がらせですか?」
「いいや?そんなことないさ」
見込みがなくてもエリアは一通り歩かされるんだぞ。営業は。
半眼を向けて抗議するが、社長はあくまでとぼけ通す気なのか、涼しい顔を崩さない。
「どう見てもただの住宅街だし――」
「ここ、美影君のご実家なんだ」
なおも続けようとした愚痴は、端末の上に社長が置いた指とその一言であっさりとぶった切られる。
「わかったかい?この意味が」
一瞬で真顔に戻った俺を見て、社長は再びにんまりと口の端を上げた。
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