93『逆転した立場に逆転する形勢』


 ヤッバ……

 舌を強く噛み、途切れそうになる意識を何とか繋ぎとめるが、崩れた態勢までは元通りにはならなかった。くの字に曲がった体が地面に倒れ込み、積もった落ち葉が派手に舞う。口元を伝う血を拭う間もなく、立ち上がる俺の肩口を鮮烈とも言える指向性を伴った殺気が掠めていく。


「最ッ悪だな……」


 飛び出した茂みの中を見ながら、思わず悪態が口をつく。

 もはや息を潜めることに意味はなくない。猛然と迫る気配に方向を選ぶ余裕などなく、俺の体は赤く輝く明りの下に引きずり出されてしまった。


「みみみ、みみ、みつけた」


 恐らく墓石を砕いた時だろう。肘と手首の間に関節をひとつ増やしたように両腕をぶら下げながら、奴が茂みの中からゆっくりと姿を現す。もはや白よりも赤が大半を占める眼球から頬に掛けて隈取のように走る乾いた血。端に泡をつけた口から出る言葉も輪郭が怪しい。奴もこちらを追い詰める度に、かなりのペースで症状を加速させていたようだ。じゃなかったら駅前の時点で阿鼻叫喚の地獄絵図だったろう。

 腰を屈めてだらりと両腕を下げ、攻撃態勢に入った奴に正対し一応の構えを取ってみるが、とてもではないが抑え込めるビジョンが浮かんでこなかった。赤く染まった視界は今も定まることなく、船上にでも立っているのかと錯覚するほど揺れている。

 ……ダメだ。化け物と相対するには装備も気力も体力も、何もかもが不足している。というか種びょく動きを封じられたところで、すぐさまとどめを刺せなければ何の意味もない。

 頬を汗が伝い、口がからからに乾いていく。

 瞬きの度、命が終わる瞬間が近づいている。

 そんな思いを抱きながら数秒。その永劫とも言える数秒の後に、奴の体がいっそう地に沈んだ。襲い掛かるために膝を曲げたのだろう。


 ――死んだかな、今度こそ。

 赤い霞の広がっていく視界はもはや、相手の姿など碌に捉えられていない。あれだけ生きるために腐心したというのに、終わる時には意外な程あっさりとした心持ちになるものだ。

 やがて来る痛みに備え、薄く目を閉じようとしたその瞬間。




「どいて!」




 後ろから諦めを叱咤するような鋭い一言が耳へと刺さり、俺が驚いて横へ飛び退く。

 同時に響いたばしん、という訊き慣れた音。横を向いた鼻先を鋭い痛みが掠め、右耳を鋭い絶叫がつんざいた。


「美影、さん……」


 顔を上げた俺の目に映ったのは、オレンジ色の光の線が浮かぶバイザーの内側で頬に一筋汗を垂らし、口を一文字に塞いで銃を構える美影さんの姿だった。


「……訳の分からない位置にいないで頂戴。どれだけ探したと思ってるの」


 こちらに小言を飛ばしつつも、彼女は半身を引いてトリガーに指を掛けたまま。銃口の先に広がる闇を睨み続け、一向に警戒を解く素振りを見せない。


「当たったんでしょ?」


 訊ねながるが、俺も俺でそちらへの警戒を解けないまま、バックステップの形で5歩分退がり、彼女の横に並ぶ。

 そうして見やる静かな佇まいとは裏腹に、相変わらずその状況を楽観するような緩みは見られなかった。


「ライフルならともかく、この得物じゃあの距離では決定打にはならない」


 美影さんは機を惜しむように足元のケースを一瞥する。悠長に組み立てている時間はなかったのだろう。

 ……本当に、紙一重のタイミングで助けられたことになる。


「それより早く。手と足先だけでも」


 こちらがその礼を述べる前に鋭い口調と共に手渡された靴とグローブが放られてきた。

 うめき声こそ苦悶のそれだが、闇の向こうから感じ取る殺気は未だに衰えていない。状況が変わったとて、向こうは戦意を失っていないらしい。


「まだいける?」


 靴を脱ぎ始める俺を相手から隠す形で、グリップを両手で構え直しながら美影さんが前に立つ。


「無傷ってわけじゃないですけど……」


 答えながら素早く履き変え、片足ずつ爪先で地面を軽く叩く。

 衝撃を吸収するその構造のせいか、足へと僅かに残っていた違和感は完全に消え去った。本音を言えば防護服も身に付けたいところだったが、首を通す際にどうしても視界が塞がる。

 その一瞬を見逃すほど、奴は甘くないだろう。


「やるしかないでしょ」


 一度鋭く息を吐いてから彼女の横に並び直し、半身を引いて目の前の闇を見つめる。

 最低限の装備で妥協した判断は正しかったようだ。喉の下あたりから感じるチリチリとした感覚が徐々に強くなっていた。向こうも傷が癒え、態勢が整ったということだろう。

 僅かな間の後――


「っと!」


 どちらともなく、俺達は左右に飛んだ。その中央を奴が駆け抜けていく。


「奴は?!」


 跳んだ足が地に着く前に突撃の先へと視線を向ける。傷が治りきっていないのか勢いこそさっきよりも幾分か弱まっていたものの、未だ獲物に定めた人間を壊すには十二分の猛然さを保っていた。

 暗闇を走る視線がその姿を捉える前に、感じ取る痺れがほんの僅か遠のいた気がした。

 途端、心中のに別のざわめきが走り抜ける。


「気ぃつけて!」


 植え込みの影から叫ぶ。彼女の姿は未だ道の端にあった。

 奴は跳躍の差を見て、機動力で後れを取る方に狙いを定めたのだろう。背後から彼女へと迫る影を捉え、再び後ろ足に力を籠める。

 ……が、間に合うか――


「問題ない」


 しかし標的にされてなお、彼女は全く動じない。

 度胸がある訳じゃない、そこには確信があったんだ。

 奴が襲い掛かる――同時に俺が跳ぶ――直前、目に映ったのは、振り向きながら落ち着き払った声を浮かべ、それに呼応するように光の線が走るバイザーと、連動して両肩口から腕の先まで走った同じ色の淡い輝き。

 その刹那に狙いを付ける猶予なんてあるワケがない。

 しかしそれでも、跳ねるように上を向いた銃口は、寸分の狂いもなく奴の顔面を捉えていた。

 細い彼女の指が、トリガーを絞る。


「ぎっ!」


 ばしん。

 再び破裂音が響き、氷針に勢いを殺された奴の体は短い叫びと一緒に地面へと落ちた。

 顔面クリーンヒット。だが再び距離を取った美影さんの口元が小さく歪む。致命傷には至らなかったって事か――ならば。

 一度爪先を地面につけて90度回頭。そして今度は殆ど地面と平行に跳びながら、引き絞った左脚を突き出す。この勢いをそのまま蹴りに乗せたなら、威力は下水で差し込んだ爪先の比ではない。

 終わる確信があった。


「おうっ?!」


 が、俺の左足刀が脇腹を捉える直前、奴の姿が一瞬ぶれるように輪郭を震わせ、放った蹴りは空を切った。

 更に速度を上げて影に飛び退いた奴と入れ替わる形で、空振りに終わった足を不格好に地面に着け……勢いに負けてもんどりを打つ。


「……一瞬、遅かった」


 そんな不格好を晒した俺の手を取って、引っ張り上げながら美影さんは苦々しく呟く。

 あっ、なんか久しぶりな気がする。この責められてるカンジ。


「……悪うござんしたよ」


 見せた醜態に恥ずかしさを覚えながら憮然と答える俺に首を振り、彼女は慣れた手つきでマガジンを取り換えた。


「いえ、当たる直前で顔を腕でかばわれた。貴方の蹴りだって完全に死角だったはず……確かに今までの被験者とは段違い、みたい」

「マジっすか」


 うへえ、と思わず続けてしまった。

 そんな相手にどう戦えと。そんな文句が喉まで出掛かったその刹那、上からガラスの割れる音が響き、道を照らしていた灯りが消える。


「げっ」


 奴が街灯を叩き割ったと分かった途端、弱音に代わって毒づきが口から出た。

 殺気を頼りに一撃を避けるのはともかく、茂みと同じ暗さに包まれてしまってはこちらの攻撃を当てる事が数段難しくなってしまった。

 しかもこちらは、防護服とヘルメットから浮かぶ光で美影さんの姿がおぼろげに捉える事が出来てしまう。


「ヤバくね、っすか……」


 加えて症状が進んでいない彼女には、果たして奴の攻撃を予感し動く事が出来るのか。

 判断のつかない俺には、再び形勢が一気に傾いたように思えた。


「なるほど。その程度の知恵はまだある、か」


 しかし狼狽える俺とは対照的に、彼女はあくまで涼やかな顔を崩さない。スライドを引き直してからヘルメットの脇を指先で2度叩くと、小さな電子音が鳴った。


「所詮、浅知恵だけど」


 その音と連動するように色味を変えていくバイザーの下。覗く唇が一瞬不敵な笑みを浮かべたように見えた。

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