94『ハードデイズ・ナイト』

「これなら問題ない」


 構え直した彼女は、俺が奴の気配を感じ取るよりも先に銃口を動かす。そして狙いを定めるその度に、まるで答え合わせのように近づいた殺気が再び離れていった。

 つまりこの状況に限っては、俺よりも美影さんの方がはっきり奴を捉えられている、という事だろう。

 そんな俺の目と手の届かないところで続いた見えない攻防は、猛然と茂みをかき分ける音が遠ざかることであらたな局面を迎えた。加速度的に感じ取りづらくなっていく殺気に、頭の中がすーっと冷えていく。

 忘れていたように、汗がどっと吹き出すのを背中で感じた。


「まだ距離を取っていく……?」


 頭のチリ付きが完全に消えて弛緩する俺の横で、彼女は未だスタンスを外さない。恐らく機能を切り替えたバイザーの内側で、奴の発する何らかの情報――多分体温とかだろう――をデジタルに拾い上げて距離を表示しているんだろう。把握の正確さでは敵わないが、こうした言葉や数値に出来ない気配が告げる『意気』までは情報化できないようだ。


「いや、完全にケツ捲ったみたいです」


 彼女の銃口に手を添えて下げさせ、鼻から大きく息を吐く。


「恐らく動きを完全に見切られていると悟って、不利と判断したんでしょう。完全に化け物になりきる前で助かったってところか……」


 ひとまずの凪が訪れたと自覚した途端、冷えきった体から力があれよあれよと抜けていき、支えを失った棒切れのごとく体がぐらついた。


「いやー……今回ばかりはダメかと思った」


 がくりと折れる膝に両手をついて倒れそうな体をどうにか制しながら、こちらを覗き込む美影さんへと首を捻って視線を合わせる。


「感謝し――」


 改めて述べようとした礼は、いきなり胸倉をひっ掴まれた事により締まった襟によって、ぐえっという醜い声に変えられた。


「貴方ね」


 そのまま持ち上げられて無理やりに立たせられ、明確な怒りの籠った彼女の眼光に晒される。


「駄目かと思った?違う、でしょう」

「いや、流石にあの状況じゃあ……」

「ふざけないで」


 あまりの剣幕に気圧されながらもなんとか出しかけた抗弁は、胸倉をつかむ形で襟元をじり上げられて封じられる。柔軟で強固なはずの防護服がギリギリと悲鳴を上げた。

 

「またひとりに――いえ、勝手にひとりで楽になるなんて許さない」


 刺すような糾弾は収まらない。何故一度訂正したのかは分からないが、しばらくはとにかくあまりの怒気に素直に謝り倒す他なかった。

 いや、何が怖いって未だ左手にはトリガーに指が掛かりっぱなしの銃が握られているってところ。

 迂闊に刺激しようものなら迷いなくこめかみにゴリっと当てられるんじゃないか。そう思わせるほどに激しい怒りをぶつけられているように感じていたからだ。


「……ふん。分かったらさっさと歩く」


 何度目かの命乞いを込めた謝罪の後、やっと捻りあげる腕を離した彼女は、代わりにこちらの肩を支えてくる。直前と結びつかないそのアクションに狼狽するが、その手を払ってまで立っていられるほど、今の体調に自信を持てなかった。


「すんません」

「もういい」

「いや、そうじゃなくて」

「じゃあ何」


 続く押し問答で彼女の声に苛立ちが籠もっていく。いかん、これじゃ筋としてしっかりと言っておくべき事すら耳に入らなくなってしまうだろう。


「手間かけてすみません、ってことです。あと――」


 一度言葉を切り、体に無理を言って彼女の支えから離れ、しっかりと正対する。


「助けてくれて、ありがとう。美影さんが来てくれて、本当に助かった」

「……なっ」


 深々と頭を下げる俺の上から、もはや狼狽というより驚愕と言った方が正しいような声が降り注ぐ。

 ……俺が素直に礼を述べるのがそんなに意外だったんか。少し釈然としないものを覚えながら顔を上げると、そこには明後日の方に向いた彼女の顔があった。


「あのー」

「こっち、見るな」

「いや何処見てるんですか」

「だから見るなって!」


 再び始まった押し問答に若干気まずくなったタイミングで、懐の端末が鳴り響く。


「あ、院長」


 救いの手に縋るように2コールを数えずして素早く耳に充てる。スピーカーから声が聞こえてくる直前、耳には美影さんの小さなため息が届いた。


『窮地は脱したようだな』

「ええ、今度ばかりは正真正銘、美影さんに助けられましたよ」

「またそう言う……」


 院長に答えを返しながら横目で彼女の方を見ると、相変わらず明後日の方を向きながら、空いている左手で頬を掻いていた。

 あれ、もしかして照れてるのか?回り込んでその顔を確かめたい所だけど――まだ命は惜しいのでやめておこう。

 衝動を制し、逸れかけた意識を院長の声へと戻す。


『一度バイタルが途切れた時には、最悪の事態を想像したぞ』

「まぁ、それでもなんとかこうして生きてますよ。装備も着いたしこのまま追撃に移行しようかと」


 眩暈を起こして派手にすっ転んだ時だろう。見当はすぐについたが敢えて口には出さず、この後の流れを問う。


『いや、無理に気を張る事はない』


 俺の機先を制するような申し出だったが、正直に言って有難かった。追うべしと口にはしたものの、正直体中を覆うこの疲労と倦怠感では緊張が持続しそうもない。ついでに言えば足の状態も気にかかる。口からついて出たのは言ってみれば単なる強がりでしかなかった。


『こちらで再び捕捉は済んでいる。興奮状態から解放されたことで、むやみに人を襲わない程度の理性は戻ったようだ……最も、はもうないがね』


 つまりそれは、もう『人』に戻る可能性が潰えているという宣告。他人事と思えない俺はそこにうすら寒いものを覚えたが、表に出すわけにもいかない。

 ともあれそう言い切る院長の声には、今までに増して確信めいたものが秘められていた。この間口にしていた『確かめたい事』が何らかの実を結んだのだろうか。

 だとすれば、希望が見えてきたことになる。


「大丈夫なんですか?野放しにして」

『追うにしろ逃がすにしろ、どこかで綱渡りにはなるさ。ならばせめてこちらの準備を十全に整えたい。それに、完全に移行した方がこちらにとって都合がいいしな』

「都合?」

『詳しい事は後で説明するよ。今はとにかくその場から離れよう。いつ警察が来るとも限らん』

「はぁ……分かりました」


 生返事と共に通話を終わらせ、彼女の肩を借りたまま出口へと向かう。南口の駐車場に着いた途端、迎えの車のヘッドライトが眩しく目に刺さった。


「帰れますね。今日も」

「ええ。ひとまずお疲れ様、といったところかしら」


 返って来た美影さんの声からも、緊張の色が消えている。


「……ホントっすわ」


 そこで初めて俺の中に、この長い1日が終わる実感が沸いてきていた。


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