92『デッドエンド』
――あれ、曲がらない?
目算が外れた。奴は南下せず、歩いてきた道と反対側に位置する看板の脇をすり抜けて、更に西口の方角へと真っ直ぐ進んでいくようだ。記憶の限りでは、その先に続くのは住宅街。ってことは、やっぱり隠れ家をこの辺りに構えてるって事か?
遠目には分からなかったが、看板は片方の歩道を塞ぐほど大きいようだ。奴に倣って脇を抜けようと左に逸れようとして、書かれている文字が目に入る。
『この先通り抜けできません』
――なんだって?
まさか本当に墓場で寝泊まりしてるのか?あるいは通り抜けられないのは車に限った話なのか。疑念を抱えながら、なおも殺気を頼りに歩を進める。
それが犯してはならない誤ちだと気づいたのは2分も経たないうち、暗闇に伸びていたアスファルトを工事用のフェンスが歩に遮られていることに気付いた時だった。同時に今まで前に感じるだけだった殺気が、そこでぱったりと途絶える。
風の音が、やけにうるさい。こんな夜更けに霊園を歩く人間など、そこ突っ切ることが近道である者だけ。しかし道自体が途切れているのならば、その理由すら存在しえない。道を行く事以外に意味を持つ人間以外は、ここに立つ道理がない。
つまり、俺は、誘い込まれた――!
自ら
急速に流れる視界の端が捉えたのは、一瞬前まで俺のいた場所を振り被った腕の鋭い一閃。
「あっぶね!」
アスファルトを横断し反対側の地面に着く踵が草を
俺は背中を追っていたはずだ。なのに飛んできた一撃は紛れもなく俺の背後からのものだった。
いつだ。一体いつの間に回り込まれたんだ。
「ちっくしょ……」
纏まらない考えに思わず出た文句も言い終わらないうちに、右耳が遥か遠くで草を踏み分ける微かな音を捉え、胃を絞られるような心地と共に後ろへと跳ねる。そこへ一拍遅れて鼻先を掠める衝撃と響く轟音。それまで踵を預けていた大理石はまるで発泡スチロールのようにあっけなく砕けた。
思わず膝から崩れ落ちる。
2度急襲を躱せたことは奇跡に近い。院長の言っていたことは決して大袈裟ではなかったのだ。掛け値なしに今までで一番やばい相手――そう直感した本能が、これまで感じたこともない緊張と恐れを連れてくる。
加えてこの仕掛け方。奴は人を襲った時か、あるいは包囲から逃げる時か、自分の体が人並み外れた性能を手にしていることを自覚するに至っていた。それでありながらこちらを罠に掛ける程に残る知能と理性。今までの相手と異なり、完全に同じ土俵に立たれてしまっているという事だ。
いや、身体能力で言えば奴の方が一回り上だろう。
それが死により近い証拠であることを除けば、奴は完全に俺や美影さんの上位互換と言える。例え装備が万全だったとて、やはりサシでどうにかできる相手ではない。
――まずった……変な色気出さなきゃよかったかな。
再び不気味なほどの静寂が戻る墓地の中で、奴の気配はとうに闇へと紛れ込み、方向はおろか近くにいるのかの見当すらつかなくなっていた。
荒げる呼吸や自分の内に響く心臓の音がやけにうるさく感じる。感知を阻害しているのは
「はっ、はっ……」
大きく肩を上下させ息を整えようとする首筋に、ぽたりと冷たい雫が、1滴。
「うわっ!」
過敏になっていた神経が体を全力で後ろへと振り向かせ、その正体が傍に立つ木から落ちた夜露だと分かり胸をなで下ろした――のもつかの間、背中の左半身に強烈な痺れが走り、
クッソ……。
ここにきて奴の真の狙いに気付き、心中で毒づいた。
奴が攻撃に移るその一瞬こそ殺気を感じ取れるものの、1発目から2発目、そして今の3発目と方向はバラバラ、しかも感知から攻撃までの間隔は着実に狭まっている。その戦法は獲物の周りに円の軌道を描き、そいつをじわじわと狭めて追い詰める肉食獣そのもの。
今まで避けられていたのは幸運などではなかった。初撃でケリをつけられなかった奴はそのまま消耗戦へと移行したに過ぎない。
このままじゃジリ貧だ。敵わない事はとうに分かりきっているが、かといって逃げようと
まさに引くも押すも叶わない状況。こめかみを伝う汗を夜風が撫で、遠くでさざめきと共に折れた枯れ枝がぱきりと鳴った。
(え――?)
それに俺の体が反応するよりも早く、音のした方向に立つ巨木が轟音と共に砕かれて地面に倒れ、震動が脚に伝わってきた。
そうか。
思えば俺を誘い込んだ直後の奇襲はともかく、その次も今の一撃も俺の声を合図としたように飛んできていた。つまるところ奴もこちらの位置を完全に把握できてはいないという事だ。となれば完全に詰んでいるわけではない。
落ち着け、落ち着け……。
出来る事なら一刻も早く逃れたいが、まずは削られた体力と集中力を戻すのが最優先だった。体から沸き起こる酸素への欲求を最大限に抑え、口から漏れる息の音さえ殺しきって、緩やかに肺に空気を送り込んでいく。
一時的な苦しさが全身の水分を汗に変えて体外へと排出し、湿ったシャツが夜風に冷やされる頃、やっとのことで体と心は平静を取り戻した。
それなりの時間を要したものの、予想通り微動だにせず音のひとつも立てなかった結果、攻撃は飛んでこず、まだ身体がミンチになってはいなかった。
――よし。
脚を畳み、手をつかないクラウチングスタートの姿勢を取って次の風を待つ。
やがてさざめいた葉のすり合いに紛れて砕けた墓石の欠片を拾い上げ、風が止むと同時にフェンスに向かって投げる。思った通り、衝突する石と薄いアルミががしゃんと無遠慮な音を立てた途端、左正面に沸いた殺気が引き波のように遠ざかった。
その一瞬の猶予で下半身のバネを総動員して矢のように飛び出す。空振りに終わった奴の一撃がフェンスに穴を空け、金属が引き千切れる耳障りな音が止むまでに、ロータリーの脇にある茂みに身を隠すことが出来た、が。
踵、痛ってえ……ヒビでもイッたかな。
反動も気にせずに全力で地面を蹴ったおかげで、爪先と足首には熱を伴った激痛が走っていた。
靴が急に縮んだような感覚は、腫れを伴っているせいだろう。しかし悲鳴を上げるわけにもいかなかった。再び闇の中に溶けていた奴の気配が、今この瞬間必殺の距離にいないとも限らないからだ。
歯を食いしばって脂汗を拭い、口を閉じて鼻だけでゆっくりと息を整えながら、頭の中で地図を描く。ここから駅前へと続く南門まで、今移動した距離と比較してゆうに倍。
あと最低2回、いかに奴の注意を引くか。辺りを見回しても都合よく音の出そうなものはない。
ならば自前で何とかするかと、痛みに耐えながら音を立てないよう慎重にポケットの中身を探る。その中でまず候補に上がったのは財布に収まった小銭だが、入っていたのは10円玉が1枚と1円玉が2枚だけ。纏めて投げたとしても、充分に注意を引けるほどの大きな音は立たないだろう。
あと入っているものと言えばバイクのキーくらい。家の鍵と一緒にくっついているので、舗装された道へ放り投げれば奴が気づく程度の音は鳴るかもしれない。
しかしここに来るまでに奴は墓石2つにフェンス、おまけに1本大木をなぎ倒している。日が昇ればこの惨状に気付いた誰かが警察を呼ぶ筈だ。そうなった時に自分へと繋がる痕跡を落として行くのは利口とは言えない……ていうかこいつは、そもそも和也に返さなきゃいけないもんだ。
残念ながら却下。諦めてポケットに戻そうと身をよじった矢先、そこで初めて足首から痛みが消え失せている事に気付いた。
そいつは思ってもみなかった幸運。靴を圧迫していた腫れも嘘のように引いている。これならもう再び力一杯飛ぶことが出来るだろう。
初めて人間離れした体に感謝したはいいが、こんな体なのに逃げの一手しか打てない相手と思うと、改めて体に戦慄が走る。
……こんな、体?
下らないことを思いうかべていた頭の中で不意に、美影さんの声が蘇った。
『治癒による代謝でも症状は促進するから、気をつけなさい』
同時に落ち着いたはずの心臓は再び早鐘を打ち始め、激烈に巡る血流に視界が猛烈に回転し始めた。
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