91『スニーク&チェイス』
ふたつ先の街灯に照らし出され、ゆっくりと近づいてくるその姿。歳は和也と同じくらいだろうが、その出で立ちはとても学生には見えない。
ぼさぼさに伸びる金髪に、首筋と手首に覗く黒のタトゥー。ひと目で堅気の人間ではないと分かるそのディティールには、どこかで覚えがあった。
確か、まだここまで寒くなる前――
「っつぁ……!」
記憶を探ろうとした途端、強い痺れを伴った激痛が全身を走った。思わず苦悶の声を上げて体勢を崩し、ほとんど衝突と言っていい勢いで傍に立つ電柱にもたれ掛る。
「ふッ……ふッ……」
早鐘を打つ心臓に息は荒くなり、全身からは脂汗が噴き出してくる。
(普通、声、掛けるだろ……人が道端で苦しんでいたら)
――いや、違う。
向き出しの神経を吹きすさぶ砂嵐に晒されたようなこの心地。それがが未だかつて感じた事のない、悪寒混じりの殺気だという事に気付いたのは男の足音が消えた後、残した僅かな血の匂いを嗅ぎ取った瞬間だった。
分かってしまえば単純な話だ。こちらを気にも留めないのは、奴こそがこの
どうにか膝に喝を入れて立ち上がり、少しずつ宵闇に溶けていくその背中を見て直感する。根拠には乏しいが妙な確信があった。
今までこちらに得物を向けてくる奴らと幾度か相対したが、これほどまでに殺気を叩きつけられたことはない。まして相手は道を歩いていただけなのにこれだ。
間違いなく、これまでで一番ヤバい相手……。
だが、ここで尻尾をまく訳にもいかない。引き始めた汗と痛みの代わりにだんだんと焦りが増し、それが知らずして俺の足を動かし始めていた。
つかず離れず、足音も殺す。
俺も美影さんも奴が理性を取り戻した後、脱出のチャンスを伺うためにまだ駅の周辺にいると踏んで動いていた。それについてまだ異を唱える声がないという事は、院長も――もしかしたら社長子飼いの監視役も含めて――、奴が駅を遠ざかりつつあることに気付いていないと考えていいだろう。
物音を立てない様にポケットから端末を取り出し、院長へと掛ける。
『達也君か、すまんがまだ奴の足取りは』
「いえ、ほとんど偶然ですけど、それらしき人物を発見しました。今、後を着けています」
『なんだと?』
訝しむ院長に、殺気と血の匂いを感じ取ったことをかいつまんで説明するが、証拠としては弱いと思われたのか、院長はしばらく考え込むように沈黙を挟んだ。
『石井君、その人間が歩いた後の地面をライトで照らしてみてくれないか?』
「へ?なんでそんな事」
意味が分からず訊ね返すが、院長は無言を持ってこちらを促すだけだった。
まぁ、この期に及んで院長が意味の無い要請をしてくるはずはない。端末のフラッシュライトをアスファルトへと向けてみる。
「とても細かい、白い粒が落ちていないか?」
……粒?
言われて夜目を凝らしてみると、確かにアスファルトに混じる白砂とは異なる、何かの結晶らしきものが目に入った。ちらちらと光を照らし返しながら、奴の歩いた跡を記録するように続いている。
「あ、はい。落ちていますね」
『間違いない。そいつだ』
「え、何で断言出来るんですか」
本来ならば信じてくれたことを喜ぶべきなのだが、彼の態度が急に変わった事への驚きの方が態度に出てしまった。
この粒々が一体何だっていうんだ?疑問を浮かべながらなんとなしに指先で掬い――
「塩……」
伝わる感触に記憶が呼び起こされる。
体調を悪くしていた鏑木が、俺の鞄の取っ手に残していったものと、手触りは全く同じだった。
『やはりな。しかし肝心な時にGPSが役に立たんのが口惜しい』
「俺が追います。すっかり遠くに行かれちゃいましたけど、こいつを追えば追跡できそうだ。あの道の混雑じゃあタクシーを拾う気にもならんでしょう」
『それはそうだが、危険すぎる』
難色を示す院長に大丈夫です。と軽く笑う。
「俺だってあんな奴とタイマンはごめんですよ。仕掛けるのはこっちが万全になってからです。最悪
「……わかった。こちらも出来る限り早く、美影君を向かわせる。絶対に感づかれるなよ」
渋々の了承といった表情が浮かんでくるような声と念押しを聞いて、俺は未だ微かに震える膝を平手で叩いて歩き出す。
「それと奴の情報を。特に普段どこに住んでいるかを知りたいです」
『住所か?家の前なら既に網を張ってあるが』
「目安が欲しいんです。今はとにかく警戒網を抜けるために歩いているんだろうけど、いざ警察を撒いたと確信した後どこに向かうのか」
アトランダムに道を曲がりつつも家に近づいてれば網に掛ければよし、そうでないなら奴は別に潜伏場所を持っていることになる。
『分かった。切ったらすぐに送るように言っておく』
流石と言うべきか、院長はそこまでの説明を待たずに意味を汲んでくれたようだ。
「頼みます」
念を押して通話を切り、懐に端末を仕舞い込んで再びライトで地面を照らす。
塩の粒が続く先の闇を見据えていると、脳の一点を焼かれているかのようなひりつく感覚が蘇ってきた。
※ ※ ※
しっかし、どこまで行くんだ……?
追跡を初めて10分、下り線の駅をひとつ超えてもなお、俺と奴の静かな追いかけっこは続いていた。
初めて数分で地面に落ちている塩は途切れてしまったが、奴が無意識に放つ殺気はあまりに強い。それに晒されっぱなしなのはきついが、そのおかげで例え角をふたつ以上曲がられても、問題なく捕捉出来る。そいつに気付いてから少しだけ気は楽になった。
しかし、警官の追跡を警戒してかほとんど
……っつーか、そもそもさぁ。ジャケットを脱いで腕に掛け、汗を拭う。
速すぎるんだよ。奴が歩を早めれば追いかける俺もペースを上げないわけにはいかない。地図情報を送り続けているとはいえ、向こうはこちらを探しながら歩いているのだ。これでは合流がいつになるか見当もつかない。
これはマジで、ねぐら探して今日は撤退、か……?
単独で、なおかつ装備も届かないとあっては、喩え目の前で一般人を食い散らかそうともそこに割って入ることすらできない。ていうかもう深い時間だし、明日も会社あるしな……。
始めの内こそ離されず、かつ感付かれないようにと神経を尖らせていたものの、気配だけを追える事に気付き倍以上に距離を離してからは、そんなことを考える余裕すら生まれていた。
それが知らない間に生まれていた油断だとも気付かないまま8割シャッターの降りた商店街を通り抜け、スタジアムの脇を掠め、飛行機のエンジン音に顔を顰めながらサッカー場と大学の脇を通り抜けて、JRの踏切を渡る。
気付けば奴が事件を起こした私鉄の線路と、それに沿って走る国道からは随分と離れていた。
電話の後にすぐ送られてきた奴の住所からは、未だ電車を使わないことがナンセンスと思える程遠いが――
切りなく続くと思えた追跡劇に果てが見えたのかと、僅かな期待と緊張を覚える。だがその先に見えてきた整列する無数の石柱に、その思いはあっけなく打ち砕かれた。
2ブロック先を歩く奴が入っていったのは、いくつもの区画を跨ぐ都内有数の大霊園、その東口。いくら死人に近いからと言って、墓場に居を構えるのは気が早すぎるだろう。
車の往来が重ねる排気音が遠くなっていく。静けさが増していくにしたがって俺は歩調を落とし、奴との距離を更に広げていった。夜の霊園ともなれば車はおろか人の通りもゼロに等しく、立てる足音ひとつでも嫌という程目立ってしまう。
あるいは……あんまり歓迎したくない想像が頭をよぎった。
奴はとっくに追跡の気配を察知していて、その上であえてここを通り抜ける事にしたのかもしれない。自分以外に選り好んでこんな時間にこんな場所を歩く人間。着いてくる誰かが単なる通行人かあるいは追跡者なのか。そいつを判別するふるいとしてはこれ以上ないくらい適したルートだろう。
最悪なのは、先手を打たれる事。更に歩調を落として距離を広げ、殺気を見失わない様にさらに集中を深めて、その傍らで地図を開く。このまま霊園の中央まで歩き、そこから左に曲がって南口を抜ければ、再び私鉄の駅近くに出ることが出来る。後を着けられていないことを確信した上で、改めて帰宅のために電車を使うとするなら、こちらが思い描いている経路を行く公算は高い。
襲われるとなれば紛れもない大ピンチだが、今の段階でアドバンテージはあくまでこちらにある。その考えを頼りに静さと前に出す足のペースを保って進んでいた。
「あ、あら……?」
奴の影が、霊園の中心部にあるロータリーを直進するまでは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます