90『イントロダクション』

「今から指定する場所に直行できるか?」


 耳慣れない指示に、思わずバイクのキーを回す手が止まる。そんな俺を見た美影さんは一瞬怪訝な顔を浮かべるが、代わりに出発の支度を少しでも勧めるように、ふたつの空き缶をゴミ箱へ持って行った。


「直行……ですか?俺達今日は防護服――」

「どうにかして現地に持っていかせる。こちらに寄ってもらう時間はない」


 こちらに有無を言わさぬ彼の言い草には、威圧より焦燥が前へと滲み出ていた。鍵を捻ってから、あえて口調をスローに落として訊ねる。


「一体、何があったんです。普段ならおびき出すなり何なりするでしょう」


 スピーカーから漏れ出る声が聞こえたのだろう。声を尖らせる俺の横で、空き缶を捨てて戻ってきた彼女もただならぬ雰囲気に身を固くしていた。


「奴は既に一般人に襲い掛かった。欲目を見て泳がせすぎた私の失態だ」


 ……欲目?

 見当がつかずその意味を尋ね返そうとするが、開いた俺の口を制するように彼の言葉は続く。


「とにかく、説明は後でする。警察が行方を掴むまでにこちらが追い付かなければ――」

「マズいですね。事が公に」

「それどころの騒ぎではない。下手を打てば警官の死体が山を築くぞ」


 切羽詰まった彼の口調に思わず全身が粟立つ心地を覚えた。一線を越えてしまえば、そこまで危険な存在になり得るってのか。

 俺達も身の内に同様の爆弾を抱えている。その事実も一層背筋を冷たくさせた。


「……分かりました。でも絶対に装備は持ってきてください。特に美影さんの得物!」


 いくら自分の身体がそいつに近かろうと、丸腰でそんな奴の前に立ちたくはないし、体術の心得がない美影さんなら尚の事リスクが大きい。そんなこちらの心情を察してか、彼は一度大きな声で首肯を示した。

 電話を切って封筒をリュックに仕舞い込み、シートに跨りヘルメットを被ると同時に端末が震え、新たな地図が表示される。指定された場所まではここから20号に出て30分といったところか。


「すんません。もうしばらく辛抱できますか」

「言ってる場合じゃないでしょ」


 渡したヘルメットを頭に押し込んだ彼女は、言うが早いか躊躇もなく後ろに飛び乗った。


「行きますよ」


 




 ※     ※     ※






 帰途に就く車でごった返す20号線を上って行くにつれて、横をすり抜ける赤色灯の数が増えていった。撒き散らかされたサイレンの音に無理やり端に寄せられ、出来上がった渋滞の中で苛立ちを噛みしめるドライバーがクラクションの重奏を添える。

 院長の指定したまだ2駅ほど先だってのにこの騒ぎよう。端末に表示される同心円状の警戒網は、警察がまだ犯人の足取りを追いきれていない事を意味していた。それが俺達にとって幸か不幸かは、まだわからないけど。

 ドップラー効果が残す嫌な耳鳴りに眉をしかめながら、車列の脇をすり抜けていく。ときおり後ろの美影さんが小さく悲鳴を上げ、そのたびに腰に回る腕の力が強まった。


「あ、あんまりギリギリ攻めないで……」

「すません。出来るだけ脚閉じててくださいね」


 こういう時にバイクは有難い。

 車ならば今頃完全に身動きが取れなかっただろうし、この分では駅周辺は厳戒態勢が敷かれ、封鎖されている可能性すらある。電車ならば現地に降り立つことすら叶わなかっただろう――と、混み始めた辺りまでは思っていたのだが。


「げ……」

 現場まであと一駅と迫ったところで、道の先にワゴンタイプの警察車両が二台見えた。パトカーは道すがら何台も俺を追い抜いていったが……

 嫌な予感は的中した。車体の上に光る電光掲示パネルの文字を見て思わず顔が歪む。


「検問?」

「いえ、事故ですね」


 恐らく、物々しい雰囲気で道を行くパトカーの集団に目線を奪われでもしたのだろう。すっかり後ろから叫ばれる事もなくなるほど落ちたペースでしばらくのろのろと進むと、かたやボンネット、かたやハッチバックをべっこりと凹ませた車の前で2人のドライバーが頭を抱えてる姿が見えた。

 参ったな。すっかり止まってしまった車列の脇で、首を左に伸ばして先をの様子を伺って舌を打つ。ぶつけられた拍子にハンドルが暴れたのか、事故を貰った車のノーズが歩道と車道を隔てるガードレールにめり込んでいる。これでは路肩を走って混雑を抜ける事はまず不可能だ。

 ならば、と通行規制のギリギリまで進み左の小道に入ろうとしたところで一方通行の標識が目に入り、慌てて切りかけたハンドルを戻す。


「ひゃっ!」

「すんません」


 急制動に口を尖らせる美影さんに謝りながら溜め息を吐くと、目の前で赤色灯を振る警官が不審そうにこちらを見てきた。


「どうすっかな……」


 ハンドルを握る手に力を籠める。

 交通法規なぞ尊重している場合か。院長の危惧が大げさでなければ、今は1秒でも早く相手を捕捉しなければならない。

 野放しにしている間に、最悪街中でスプラッター映画もびっくりの猟奇事件が起きる可能性すらある。例えそれが武装した機動隊相手でもだ。


 ――って事を理解しているのが俺達だけ、ってのが問題なんだよなぁ。

 メットの中で顔を曇らせる。ただでさえ今のアクションで注意を引いてしまった上、暴漢を逃すまいと非常線が張られ始めているのだ。ここで車両進入禁止の看板を無視して小道に入ろうものなら、現場から遠ざかろうとする被疑者の1人と見られてしまうだろう。そうなれば時間のロスどころの騒ぎではない。


「どうするの……?」


 そんな事態を察知したのだろう。後ろから美影さんがおずおずと訊ねてきた。それとタイミングをいつにして、ポケットに押し込んでいた端末が震える。


「もう、装備は駅に着いたみたい……でもこのままじゃ」


 同様の連絡がきたのだろう、俺が端末を取り出すより先に焦れた口調で彼女が呟く。


「美影さん、悪いんですけど降りてもらって、先に一式受け取ってきてもらえますかね」

「私もそれは考えていた。けど……」


 ハザードを焚いて路肩に足を付けた俺に向かって、今や美恵全能の仮面を外した彼女は、言外の不安を臆面もなく喉の震えに表してくる。

 ……いやそれに喜んでる場合じゃなくて、その心配がどこから来ているかは既に見当がついていた。


「奴は襲い掛かった後ちゃんと……というのも変ですけど、現場から逃げている。いっぺん理性が戻った証拠です。それなら人の流れに紛れて、間違っても人気のない道には入らない様にすれば――」


 ここまで説明しても未だ彼女の腕は腰に巻き付いている事に気付き、一度口を止めて軽く笑って見せる。


「大丈夫、俺も適当なところ停めたらすぐに追いつきますから」

「……分かった」


 俺の背中にヘルメットが軽く当たる感覚、わざわざ頷いてくれたという事か。その几帳面さに頬を緩めているうちに、リアサスのスプリングが本来の位置に戻った。ついで、彼女の爪先がコンクリートを叩くこん、という軽い音が耳に届く。


「受け取ったら駅に留まっててください。検問に引っかかっていないってことは、まだそう遠くには逃げていないはず」


 遠ざかっていく美影さんの背中に告げて、誘導棒を振る警官の目がこちらに向いてない隙にエンジンを切ってバイクを歩道へと押し上げた。駅の近くならばどこかにバイク用のコインパーキングくらいあるはずだ。

 その直感が正しかったと証明されたのは、一方通行の道へバイクを押していき、角を2つ曲がった後だった。漫画喫茶と居酒屋の入った古いテナントビルの入り口、その脇に記号化されたバイクのロゴが記された看板を見つけて、心の中で拳を掲げる。

 外国の地下鉄駅にある改札に似たゲートをくぐり、一番手前の白線にバイクを停めたところでタイミング良く美影さんから着信が入った。


「今受け取った。そっちは?」

「オッケーです。少し駅から離れちゃいましたけど、無事に置けました」

「やっぱり。どこかまで出たほうがいい?」

「いえ、直ぐに向かいますからなるべく目立つところで」

「目立つって言っても……テレビやら警察やらで、どこもごったがえしてる。北口にある売店の傍に立っているから」

「わかりました」


 手短にやり取りを終えたころには、既にゲートから外に出て歩き始めていた。

 曲がった方角も記憶しているので、どちらに向かって歩けばいいかの見当はつく。だが土地勘のあまりない場所ということもあり、最後に曲がった角まで戻ったところで一応端末で地図を確認する。


「ん……?」


 そして改めて歩き出そうとした矢先、通りの向こうからゆっくりとこちらに歩いてくるひとつの影が見えた。

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