第10相

87『埋めた空白の先へ』

 あるいは燃え盛る炎に、あるいは崩れ落ちる瓦礫に。

 幾重にも重なっていた悲鳴がひとつ、またひとつと呑み込まれて消えていく。

 始めは遠い叫びから、だんだん自分に近いものへ。それは刑場へ続く列に並ばされ、自らの意思と関係なく進まされているような恐怖だった。

 

 「う、あ……」


 いやだ。死にたくない。

 そこから何とか抜け出そうと身をよじっても、鉄くずの下敷きになった体は一歩も前へと動いてはくれなかった。代わりに返って来るのは、食い込んだ破片に床と縫い合わされた脚の筋肉が引き裂かれる感触と、身体の内側から返って来る断裂の音だけ。

 そして何よりも、そこに事が恐ろしかった。

 自分の身体がいまどうなっているのか。腰から上は辛うじて動かせるものの、下半身へと目を向けることが出来ない。

 そうして自分が瀕死であると突きつけられれば、正気を保っていられる気がしなかったからだ。たった数メートル先、広がる煙の向こうにあるはずのドアにはどうやってもたどり着けない。

 すなわち、俺はもう助からない。

 それを知った今、爆発や足を押しつぶした瓦礫がどうして頭を砕いてくれなかったのかと恨めしい気持ちすら湧いてくる。

 いっそ何もかも分からなくなってくれれば、その方が楽かもしれなかったのに。

 そんな逃避も虚しく、額から落ちてくる血で真っ赤に染まっていた視界が段々と暗くなっていく。

 最初の衝撃から何時間だろう。あるいはまだ5分と経っていないのか。それすらもわからない。時間の感覚は既になかった。

 だんだんと痛みも熱も引いていき、代わりに全身を包み込む寒さと耐えがたい眠気が意識を連れ去ろうとしてくる。

 違う。このまどろみの先にあるものは、多分――

 怖い、怖い、こわい。

 想像もつかない場所へと連れ去られる恐怖に、まだ千切れていない方の手が縋るものを求めて彷徨う。

 立ち上る煙を掻き、迫りくる炎を撫で、やがて胸元の銀の輪に触れて、思い切り握りしめる。

 ただれてグズグズになっていたは、それでも歪んだリングの感触を伝えてくれる。少しだけ、体の震えが収まったような気がした。もはや街灯のない道辻で迎える夕暮れのように暗くなった視界を、隣のひしゃげたシートに向ける。

 誰も座っていなかった席。

 先輩が乗るハズだった席。

 飛び立つまで何度も確認し、その度にため息を吐いたその事実に感謝する瞬間が来るとは思わなかった。


 彼女がこの事故に巻き込まれていない。


 失われつつある五感いっぱいに広がる地獄の中、それだけが唯一の救いであり、薄れる意識に這い寄る死の予感を少しだけ紛らわせてくれた。

 やがて起こる再びの爆発とうねる火焔。とうとう、通路を挟んですぐ隣から聞こえていた呻きが途切れた。もはや鼻先にまで迫った炎に潤いを奪われ、目を開けていられなくなる。

 閉じた瞼を貫通してくる閃光でちらつく闇の中、俺は先輩の顔を思い浮かべていた。

 今頃どうしているだろう。

 家のテーブルに肘をついて不機嫌な顔を乗せたまま、それでも俺の帰りを待っていてくれているのだろうか。

 この事故を知ったら、悲しんでくれるんだろうか。

 だとしたら嬉しいけど、どうやらその顔をもう一度見る事は叶わないみたいだ。


 帰るって言ったのになぁ。

 目尻から溢れた涙が熱された床に落ち、小さな悲鳴を上げてすぐに消える。

 やがてゆっくりと体を包み込んだ炎が思考までをも溶かしていき、閉じた瞼の裏側を白く染め上げていく――


 




 ※     ※     ※






「……っと!さっさと起きて!」


 途切れた筈の意識を引き上げたのは、遠くから聞こえてきたそんな叱咤の声だった。ゆっくりと開いた視界に映るのはシーリングライトの昼白色と、こちらをのぞき込む彼女の、顔。

 仰向けに倒れ込んだ俺は、その腕に抱えられているようだった。


「先、輩……」

「はぁ?……って、ちょっと!」


 ほとんど無意識にその体に腕を回したところで、ここが燃え盛る飛行機の中ではなく自分の家であり、抱きしめた相手が先輩ではなく月島さんだという事を思い出した。

 失態を悟り、強烈な突き飛ばしの衝撃に備えて身を縮こまらせる。


「……私は美影であって美恵じゃ、あなたの彼女じゃない、いい?」


 だが月島さんは首に回る腕を振りほどくこともせず、俺に噛んで含ませるように言い聞かせてくるだけだった。ゆっくりと身を離し頭を下げる俺を見て、彼女は侮蔑の一言も発さないまま、ただ一度息を吐いた。


「いきなり白目向いて倒れ込んだから、何事かと思ったけど……その様子じゃ」


 そして話を切り替えてくる彼女と改めて正対しても、あの笑顔が勝手に重なって来る。

 未だに誤解を解こうとしない脳を振った首で強く揺さぶって、自分の頬を張る。そんな俺を見る月島さんの目は、どこか影を帯びているようにも見えた。


「ええ、思い出しました。ナンバーって、そういう事だったんだ」


 どうして理由もわからないのに気に入っていたのか、ベッドの奥に転がっていた塊の正体は何だったのか、フラッシュバックした光景に全てを繋げられた。

 それを合図に堰を切った様に流れ込んできた記憶の奔流。未だ残る余韻に軽い眩暈を覚え、思わず足がたたらを踏む。


「ちょっと、本当に平気?」


 戸惑いながらも再び近づけてくる彼女の顔を遮るように手をかざす。

 今は、見たくない。


「ええ、もう平気です……5297だ」

「え」


 美影さんからすればどうして俺が答えに辿り着いたのか、皆目見当も付かないだろう。


「これ、ペアリングなんですよ。俺と先輩の。俺の方に刻まれているのは5297。『幸福な5297死者に4482』、これで間違いないはずです」


 俺と先輩が一番好きだったナンバー、わかってしまえば単純な語呂合わせに過ぎない。

 だが、今この場で理由を説明する気にはなれなかった。今俺の頭をぐるぐる回っている思いが果たしてどちらへのモノなのか、その線引きをはっきりさせないうちは、あけすけに過去を語る事が2人に対する最大級の無礼にも思えたからだ。


「……そう。なら、急ぎましょう」


 答えを得て、美影さんは静かに支度を始める。それで納得してくれたのか、それともこっちの心の内を察してくれたのか、そこまではうかがえない。


「俺はあと上着着るだけなんで……少し、便所行ってきます」

「ええ」


 背中に声を受けながらドアを開ける。何も訊ねず、気遣いの言葉も発さない。美恵先輩のものと違う不器用なその優しさが、今は有難かった。

 トイレはこの部屋と反対側、廊下の突き当り。

 今もこうして2人を比べている自分を叱るには、おあつらえ向きな場所に思えた。

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