88『遠くにありて思ふもの』

「あれ、もう帰るの?」


 ジャケット片手に俺たちが廊下に出ると、隣の部屋にいた和也がドアから顔を覗かせた。


「和也、悪いけどやっぱりもう一度バイク持って行っていいか?週末には今度こそ返すからさ」


 その提案に、和也は驚きと困惑を混じらせた目を丸くする。

 まぁそりゃそうか。ここに来たそもそもの目的を全否定しているんだから。

 

「いや、そりゃ構わないけど……どしたの?」

「ちょっとな……んじゃ、これはレンタル代ってことで」


 理由をにごす俺に首を傾げる和也の腕を引っ張り、財布から万札取り出して握らせる。

 母さんから貰って結局使わなかったその2枚は、まるでなるべくしてそうなったように実家の経済へと戻ることとなった。


「いや、こんなに貰えないって!っつかバイクはもともと兄ちゃんのじゃんか!」


 慌てて押し返そうとする和也の腕は、俺がほんの少し指先に力を籠めるだけであっけなくその動きを制することが出来てしまう。


「いいからいいから」


 社会人の余裕を見せつける顔の裏で、薄いガラス細工を摘まむ様な緊張に苦心する俺がいた。

 早く諦めてくれ。次にいきなり予想外の動きをされたら、力加減が狂わない保証はどこにもない。


「本人がそう言っているんだから受け取ってあげて。バイク使うの、私の為でもあるから」


 ……ナイスフォロー。

 肩越しに顔を出した美影さんの一言で、腕に伝わる抵抗が消える。恐らくバイク好きな彼女の小さな我儘のせい、とでも勘違いしてくれたのだろう。


「う……じゃあ、貰っとく」

「またね、和也君。留学頑張って。似たもの姉妹になっちゃダメだよ?」

「一言多いわ」


 俺の半眼を完全無視しながらにっこりと笑って一礼する美影さんに向かって、俺から手を離した和也は背筋を伸ばして一礼を返した。

 その顔が少し赤いのは照れているのか。こういう奥手な所から既に似てはいないんだけどなぁ。


「ありがとうございます。またご飯食べましょう!兄ちゃんも、また飲みに行こうね」

「おーう。それもいいけど折角免許取ったんだし、今度はツーリングだな」


 そのまま玄関まで着いてきた和也に笑ってやるが、それを訊いた奴は少し困ったように頭をいた。


「ははは、留学から帰ったらだね……いつバイク買えるかわかんないけど」

「心配すんな。いくらか援助してやっから」

「いやー、それは悪いよ……」


 口ではそう言いながらもまんざらではなさそうな和也の後ろで、今度はリビングのドアが開く音。スリッパが廊下を擦るパタパタという音が近づいてくる。


「ちょっと、親に黙って帰るのはないんじゃない?」


 こちらの話し声で帰ろうとしている事に気付いたのか、前が濡れたエプロンも脱がずに小走りで寄ってくる。


「いや、ちゃんと挨拶しようと思ってたって」


 どこか懐かしさすら覚える小言に慌てて弁を返す俺に、母さんはまったくと息を吐きながら腰に手を当てた。


「まぁいいけど。ごめんね美恵ちゃん。ろくに構いもしないで」


 尖らせた口と裏腹に本気で腹を立ててはいなかったようで、母さんはすぐに俺から目線を外し後ろの美影さんへと声を向けた。


「そんな事……ご飯、おいしかったです」

「また食べにおいで」


 それは母さんにとっては何気ない一言だったのかもしれないが、それを聞いた美影さんの表情が一瞬、暗く沈む。


「……はい。また、是非」


 直ぐに表情を戻して改めて一礼し、俺より先に靴を履いて玄関から出ていくが、母さんはその後姿に何かを悟った様子で、続いて外に出ようとした俺を呼び止めた。


「あの子、いろいろあるみたいだけど、アンタしっかり支えてあげなさいよ」

「……俺がいない間、何か話したの?」


 まさか置かれた境遇そのままぶちまけたわけではないだろうが。

 出来る限り平静を装って聞き返すが、そんな俺の内心を見透かすかのように、母さんはやっぱり、と呟き、視線を遠くへ向けた。


「特にそういう話題になったわけじゃないし、あまり立ち入るつもりもないからわざわざ訊きはしなかったけどね。けど、あの子、何か抱えてるでしょ」

「え」

 

 あっさりと正鵠を射抜いたその一言に、繕ったメッキはあっさりと剥がされる。そんなリアクションが裏付けとなってしまったのか、母さんは確信めいた様子で小首を縦に振り、長い唸りを漏らした。


「笑顔に無理が見えるのよ。必死に何かを取り繕ってる感じが」

「なんでそう思う?」

「何年人の親やってると思ってんのよ。やっぱり大企業の令嬢ともなると、深い悩みも尽きないのかね」


 さすがに偽物と見破られはしなかったが、恐るべきは母親の勘といったところか。少なくともこの短い間に普段机の並べている会社の連中より遥かに正確に彼女の事を読み取っている。

 もし俺を眩暈めまいが襲わずあのまま食卓を離れなかったら、下手すりゃこっちの内情すらも見通されていたかもしれない。


「ま、俺に出来る事をやるよ」


 ――彼女美恵彼女美影に戻った後、ちゃんと自分として生きていられる場所を作る。

 適当な文句で答える俺の頭に、この間の院長とのやり取りが蘇っていた。


「よろしい。呼び止めて置いて悪いけど、あんまり女の子を待たせるもんじゃないよ」

「ああ。近いうちにまた帰るから。またね」


 ドアに手を掛けながら別れの文句を口にする俺に、母さんは頷きながら少しだけ名残惜しそうな顔を浮かべていた。


「……」

 

 その表情に強く、後ろ髪を引かれる。

 今の自分に、いつかもう一度この門を潜れるという保証はどこにもない。それなのに最後に見る顔がこんなものでいいのか。


 ――そうならないために、こっから動くんだろ。

 ぎゅっと下唇を噛みしめ、頭をよぎる暗い感情を振り払うように、もう一度手を上げてドアの外へと出た。 





 

 ※     ※     ※






「すんません。待たせちゃって」


 玄関のドアが音を立てて締まり、奥の気配が遠ざかっていくのを感じながら、俺はサイドスタンドを跳ね上げ、バイクをガレージから引っ張り出す。


「何か話していたの?」

「別に。離れて暮らす息子への、心配の文句だけですよ」


 タンデム用のヘルメットをリアカウルから取り外しながらそっけなく答える俺に、彼女はから戻した常温の視線を向けてきた。

 だがその無言の催促に答える気はない。ここで母さんが彼女の不自然さを感じ取っていたことをわざわざ話すこともないだろう。

 顎紐のジョイントを外し、話を打ち切る代わりに彼女へと差し出すが、待ったところで一向に受け取ろうとはせず、俯き加減でマフラーの辺りに目を落としている。


「もし話し足りないなら、ギリギリまで待ってもいい」

「何すか藪から棒に……」


 その声は本当に俺に充てられたものだろうか。

 一瞬そう疑う程に小さくポツリと零す美影さんへ返す文句が、無意識に棘を秘めていた。

 それは俺なりに意を決して別れを告げた判断を責めているように感じたからかもしれない。


「どうでもいいでしょ――」


 改めてヘルメットをずい、と差し出しながら促そうとした口が、手の先にある彼女の歪んだ表情を受けて止まる。

 親に逢いたくても逢えない境遇の彼女にとって、今の俺はそんな自分の目の前で喉から手が出る程望む機会をむざむざ中途半端に終わらせようとしている贅沢者に映っているのかもしれない。


「……治ったら、また帰りますよ。このまま犬死するつもりはないですから。あんたもそんなつもりで動いてる訳じゃないでしょ?」


 俯きながら頭を一掻き。それから出来る限り柔らかい顔でもう一度、彼女の胸元へと強引にヘルメットを押し付ける。


「ほら乗って。急ぎましょ?」


 それきり彼女から視線を剥がし、ハンドルを握ってセルを回す。

 反応を確かめる事はしなかった。エンジン音に急かされるように、僅かな間の後、車体が僅かに沈み込んで、またがった彼女が慣れない手つきで俺の両脇腹を摘まんでくる。


「そんなだから怖いんですよ。俺も痛いんで――」


 苦笑しながらジャケットからその両手を剥がし、俺のへその上まで持っていき、がっちりと両指を組み合わせる。


「ちょっ」


 上ずったその声にも構わずアクセルを回すち、掛かるGと浴びる風に続きをさえぎられた美影さんが腕に力を込めてくる。恥だか嫌悪だかが恐怖に負けたのだろう。

 思った通り住宅街の狭い十字路を曲がるために、車体を2、3度傾けてみても、この間よりも遥かに曲がりやすい。

 背中に伝わる、記憶の中の在りし日と同じ感触。そこにどこか後ろめたい気持ちを覚えながら、バイクは帰りの足で混み始めた国道へと走り出していた。

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