『回る、巡る、その終わりへ②』

「まずさぁ、これを旅行って言えるわけ?」


 やおらベッドから起き上がり問いかけるも、返ってこない答え。ああそうですかとそいつを鼻で笑い飛ばしてから、夜の空と海の漆黒を移す窓の方を向いた。

 不機嫌を示す大仰なポーズ。そこから繰り出されるのは立て板に水……どころか全開に捻った水道管に直結したホースが付いてるんじゃないかって勢いの不服だった。


 滞在中全ての日程で、朝と夜となくいい匂いが漂ってくるレストランをスルーさせられ、挙句道端の汚ない屋台だか小屋だか、ある時は店ですらねえ畑の端っこで、訳の分からないものを延々と食べさせられた。

 当然、舌鼓を打つようなものは期待しようもなく……というか何の野菜なのか肉なのかも判別がつかないせいで、美味い不味いという表現すら頭に浮かぶ代物ではない。それを『仕事の一環』と言いながら喜色満面に口へ運ぶ先輩に、ちょっとした畏怖を覚えるほどだった。

 ――飯は旅の醍醐味のひとつ。

 この持論に異を唱える人はそう多くないだろう。それが満たされないストレスに加えて、昨日あたりからウンコの色まで変な感じに変わってきたとあれば、そこに健康への不安も上乗せされている。思わずトイレで叫んだわこちとら。

 ……納得いかないのはそれだけじゃない。

 思い返せばこの7日間、起きている間の大半は年式どころか元の色すら判別つかないようなオンボロカーを駆る現地人の荒い運転に、いいだけケツを痛めつけられる苦痛の時間だった。そうして景色を楽しむ余裕もないまま挙句案内されるのは、他に旅行客のひとりもいないような癖地であり、そこで待っているのは前述の通り半ば拷問のような食事。食いたくて食ってる訳じゃない俺にとっては、げんなりしない方がおかしいシチュエーション以外の何物でもなかった。

 で、それをどうにか胃に詰め込んだ後、また車の天井に何度も頭を打ち付けながらホテルへ取って返す。そこから夜の街を改めて観光……なんて体力はとてもじゃないが残っておらず、せいぜいが半ば惰性のように先輩とベッドでじゃれ合って寝落ちか、それすら出来ない時は日本から持ってきたらしいPCに向かい合う彼女の背中を見ながら、俺が先に意識を落とすかの二択しか待っていない。

 時折ホテルへ戻る際、ついでのように『シタデル』とかいう砦とか、なんちゃらブルーとかいう池とか……どうやらハイチの景勝地らしい場所に連れていっては貰ったものの、旅らしいことと言えばそれくらいなもんで、しかもじっくり見る時間すら与えてくれなかった。

 もはや寄った、という表現すら似つかわしくない。

 来た。見た。帰った。

 言葉にすればカエサルの名言かっつうテンポの良さで写真もろくに取れずじまい。それは言ってみれば俺の機嫌に対する、雑な帳尻合わせとしか思えない行いにしか見えなかった。

 そんな子供騙しみたいな手でこっちの気が紛れると思われているのだろうか、そう考えるとそれはそれでやるかたない思いが募った。

 そして何より――

 こうして我慢に我慢を重ねた割には、結局俺が連れてこられた意味を見出すことが出来ないまま、滞在最後の夜を迎えているという現実。これが一番心に来る。

 わざわざ日本からついてきた俺が、食事以外に任される仕事と言えば荷物持ちくらいなもので、後は現地の人間とどこか訛りのあるようなフランス語で話す先輩の背中を延々と見ている、だけ。

 そこに俺である、俺じゃなきゃいけないって実感は全くない。

 そして苦難の先に俺だけ、全くと言っていいほど達成感もない。

 学生カップルの卒業旅行というカモフラージュ。それに使われるだけの俺という存在。

 一見いかなる端役でも、とその覚悟はしていたはずだった。

 だがいざ現地に行くと、。その不足は夜が明けるごとに虚無感という質量を得て俺の心に積み重なっていった。

 そのしんどさを甘く見ていた。俺に非があるとすればその一点だけだろう。

 せめてこの苦行ともいえる旅路にどんな意味があるのか、それを今日までに教えてくれればまた違った心地で入れたのかもしれない。だが伏せられたまま最終夜を迎え、別の不満を端緒たんしょとしてとうとう口からあふれ出てしまった。


「――そりゃまあ、半分は仕事で行くってのは納得した上よ俺だって。でもこれじゃ流石にあんまりじゃねえの?」


 筋は通っているはずだ。果たしてどう出て来るか。

 その問いかけで追及を一度締め、窓の外へと向けていた目を先輩へと戻す。俺としては、せめて明日の昼、最後のフライトまでだけでも旅行らしい食事と観光が出来ればいい。

 返って来るのが反省ならば赦しを、涙ならば慰めを、反論ならば更なる論破を。いずれにしてもその後で、自分の望む流れに引き寄せる算段はもう付いている。

 しかし振り返った俺の目とに映る視線には、何の色も浮かんでいなかった。さっき『つまらない』と一刀両断したメニューを眺めていた時のそれと同じ、灰色の瞳。

 それだけをただ向けて、黙ってこちらを観察ている。唯一絶えず動かしている、トランクと荷物を往復させる手の動きが一層、彼女の心を不透明に覆い隠す。


「……ちょっと言い過ぎた。頭冷やしてくる」


 そうして睨み合う事数分。やがて絞り出した上滑りしたようなこちらの口調にも、先輩はなんらリアクションを返してこなかった。

 ただその無機質な視線を背中に覚えながら、カギと煙草を引っ掴んで足早に部屋を出る。

 正直にいうと突き刺される沈黙に耐え切れなくなっただけだが、吹っ掛けた手前それを情けなく白状するわけにもいかない。

 後ろ頭を掻きながらホテルのドアを潜ると、寝間着に吹き付ける夜風が普段より妙に冷たく、湿っているように思えた。スラム街に迷い込まないようにだけ気を付けながらあてどなく歩き、売店でミネラルウォーターを買って適当なベンチに腰を下ろす。手に伝わるキャップの手ごたえを確認してから、ぶちまけた不満の数々で乾いた喉を一気に潤した。


「はぁーあ……」


 メインストリートから少しだけ引っこんだだけで、ハイチの夜は明かりがガクンと減る。日本の夜空よりも数段密度をまして瞬く星空に吸い込まれていく紫煙を眺めながら、長く息を吐いた。

 尾を引くようなそれは火を点けた煙草の煙を吐き出すよりも、もはやどうにもならなくなってしまった現状を嘆く溜息の意味合いの方が大きい。

 ありゃあ、少なくともこっちの言い分を聞き分けた感じではなさそうだ。ちょっといい朝飯を楽しみに寝たかっただけのはずが、どうしてこうなっちまったんだか……。

 水を買った売店でサービスに貰った、見た事もない果実をシャツの裾で拭ってからひとかじりする。途端に口中へ広がるわざとらしいまでの甘さは、この旅で胃へと運んだものの中で一番うまいと感じたかもしれない。

 あ、これも報告しなきゃいけないのかな。

 まぁ、いいか。もう……。

 自分の自制のなさに対する後悔と、それでも言い分自体は間違っていないという確信。背反する思いのどちらにも意思を固められないまま味のない煙草を吸い終えて、重い足取りで来た道を戻る。

 すぐさま来てしまったエレベーターに舌打ちして、部屋の前で一度立ち止まる。

 帰ったところで、何も変わらない。ただただ互いに居心地の悪い時間が過ぎていくだけ――そんな諦めと一緒に鍵を差し込み、ノブの捻る。


「……あれ?」


 その先で俺を出迎えたのは先輩とその荷物だけがぽっかりと消え失せ、もぬけの殻となったスイートルームだった。






 ※     ※     ※






飛行機の降下The captain hasturnedに備えまして、on the fastenシートベルト着用seatbelt sign inのサインが点灯preparation forいたしましたour descent.


 僅かに緊張を孕んだような口調のアナウンスに意識を引き起こされ、背もたれから身を剥がしてまなじりこする。

 ――マジか、いつ寝ちまったんだろう。

 段々と輪郭を取り戻していく視界には、出したままのテーブルと、その隅に落ちている何かの食べかす。

 どうやらほとんど無意識のうちに機内食だけは食ったらしい。メニューどころか味も覚えていない。およそ半日かかる空の旅だったはずだが、体感的には1~2時間過ぎたかどうかといったところだった。


背もたれとAll seat backs andテーブルをtray tables must元の位置must be inにお戻しtheir fullくださいupright position.


 注意に従ってテーブルを畳んでベルトを締め、窓の外へと目をやる。続くアナウンスが言うには、どうやら多少の警戒が必要なレベルで風が強いらしい。当然それを体感することは出来ないが、薄くかかる雲の切れ間から、地図帳で見慣れた形の海岸線が少しずつ迫ってきているのが見えた。

 ひとまずは、帰ってこれた。

 とりあえずの安堵を覚えながら端末を取り出してその景色を写真に収め、そこで目を覚ましてから一度もインスタントメッセージを確認していない事を思い出した。

 アナウンスが言うにはもう降下体勢に入っているらしい。あと10分もしないうちに、また通信端末の使用が制限されてしまうだろう。

 寝ている間に事態が動いたか否か、その答えを知らないまま着陸までやきもきしたくはない。結局また落胆に肩を落とすことになったとしても、だ。


「……あ!」


 決して都合のいい方へばっかり期待を込めていたわけじゃない。だがCAの姿を気にしながらアプリを開いて、そこで思わず声が出た。

 俺が慌てて打った拙い謝罪の文面と、そこからおよそ2時間ごとに続く今どうしているかって質問。14時間の時差のせいか、俺が眠りに落ちている間に受け手が読んだ事を示す小さなチェックマークがついていたからだ。

 改めてひとつひとつを目で追っていく。するとスクロールを終えたところで文字を囲む枠色の異なる――つまり自分のものではない――短い文面が目に飛び込んできた。

 

『もう日本にいる』


 こっちからは10通以上、対して返ってきたのはその一言だけ。だがその素っ気無い7文字はさっき窓から日本の地を目に捉えた時の数倍、いや数十倍の安堵を胸と運んできた。

 そこからひとりでに、特大の溜息がこみ上がって来る。そいつを吐ききってから即座に返事を打とうとして、そこでCAに見つかってしまった。


「あ、スィヤセン……」


 すくめた肩の間に首を落として、すごすごと端末をポケットへとしまう。そうして再び預ける体重を、シートは相変わらず優しく受け止めてくれた。

 ……思えばこの窮屈さとは無縁の席と尖らせた神経にもかかわらず齎された快適な寝心地に、俺は一銭たりとも金を出してはいない。

 最初から、この旅に物言いをつける権利なんてなかったんだよな。

 ゲートを抜けたら速攻で返事をして、なんならその足ですぐに顔を見に行こう。拝み倒して何とか許してもらって、それで2人してどっか魚のうまいところにでも呑みに行けばいい。

 それですべて、満たされるさ。

 実にほぼ2日ぶりに落ち着きを取り戻した頭でそんなことを考えながら、やることのなくなった俺はベルトに束縛されていない首だけを動かし、再び窓の外へと目を向ける。



当機はWe are making間もなく、our final approach新成田国際空港to New Naritaに着陸いたしますInternational Airport.

 

 いよいよ迫った日本の地に飛行機が車輪を出すまでの間、飽きもせずに空の青と地面のバランスの変化を目に焼き付けていた。

 心持ちが違えば、景色も全く違って見える。それは彼女に教えてもらった知見だが、その差は残念ながら写真ではわからない。

 そこに今まで感じる事すら忌避きひしていた、旅の終わりを惜しむ心地すら覚えながら――




 


 いや、待て。 

 窓から見える地面が、






 ――普通の着陸じゃ、ない。

 異常を悟った全身が総毛立った途端、轟音とともに視界が激しく上下する。

 機内は滑走路に擦り下ろされる機体が上げる、長く低い絶叫に満たされた。

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