『回る、巡る、その終わりへ①』
『
手荷物を運んでくれたCAが去っていき、
確かこの後は……後に続く乗客の妨げにならないように、さっさと座るんだったっけ。
「ん、ん……」
柔らかすぎる反発に、しばらくもぞもぞと腰の落ち着ける位置を模索する。エコノミークラスと違って席と席とはかなり間隔を設けてある上、腰高のパーテーションもあるので、プライバシーにしっかりと配慮した造りだってのは分かっている。とはいえどうしても、この様をもし他の乗客に見られて笑われていたら……という妄想が頭の中から消えてくれなかった。
往路で2回、そして復路、ポルトープランスからここニューヨークまで。既に3度の体験を済ませているにも関わらず、いざ座ってみると貧乏性の体は一向にビジネスクラスのシートに慣れてはくれないようで、ケツのあたりから伝わるもぞついたような感覚がいつまでも残っていた。
……いや、落ち着かない理由は椅子のせいじゃないんだ。
リクライニングを調整する前に右側の通路とは反対側、くっついている隣の席を見やる。だがここまでの乗り継ぎ便と同じく、そこに本来座っているべき先輩の姿はなく、乗り込んでくる人の波が一段落したところで、彼女が駆けこんでくることもなかった。
行きと違って乗り慣れた人間が、今現在隣にいない。
ハイチから飛行機に乗る時は、その心細さに囚われる余裕すらなかった。
突然突きつけられた碌に知りもしない外国に突然独りぼっち……という非常事態。
それを一睡もせず朝までかかって現実を飲み込み、やっと行動に起こす時には既に離陸時間に間に合うかどうかの瀬戸際。
これを乗り逃がしたら、下手すりゃ一生日本に帰れないんじゃないかという焦燥感。
それらに突き動かされるまま、翻訳アプリだけを頼りにただがむしゃらに空港へと向かい、気付けば空の上にいたって感じ。
だが経由地のニューヨークに到着し、およそ半日のトランジットで落ち着きを取り戻してみれば、代わりにどんどん別の不安が募って来る。
――自分の荷物だけを持って、空港に向かうタクシーへと乗り込んだ。
泊まったホテルのフロントが話してくれた、まるで幼児に向けて話すようなゆっくりとした英語を思い出す。
だが今思えば、それは慌てふためく俺を
俺はあの時、見知らぬ外国の夜の危険を知った上で、外に彼女を探しに出るべきだったのではないか。
端末を開き、先輩の番号で埋まった発信履歴をもう一度タップしてみる。だが返ってきたのはこれまでと同様、繰り返される無機質なコール音だけ。
『
舌打ちを漏らし、今度はメッセージを送ろうと別のアプリを開ける俺を制するように、再びアナウンスが流れた。
端末をポケットにしまう。結局隣の空席は埋まらないまま、やがて窓の外の景色がゆっくりと動き始めた。
相変わらず、隣の席には春休みという繁忙期に似合わない、機内唯一の空白だけがポツンと佇んでいる。すなわちそれは、これから飛行機の前輪が日本の地に触れるまで、事態の進展を期待しようがなくなった事を意味していた。
突きつけられた現実が諦めを連れてきたのか、唸りを強めていくエンジン音と反比例するように、俺の意識は静かに落ちていく――
『
※ ※ ※
「やっと、帰れる……」
すべては最終日前日の夕食後、ホテルに戻った俺がベッドに寝っ転がりながら迂闊に漏らしたこの一言が始まりだった。
それを失言だと悟る前に、それまで鼻歌交じりにスーツケースの荷物を整理していた先輩の手が止まり、曇った表情でこちらを見返してくる。
「何それ?楽しくなかったの?」
「そういうわけじゃないけどさぁ……先輩と一緒だったし」
気圧されるあまりご機嫌取りに付け加えた一言が功を奏したのか、先輩はそっか、と一言返してあっさり表情を戻し、俺から目線を外して再びスーツケースと睨み合う。
そんな彼女に気付かれないよう小さく溜息をひとつ打って、何の気なしに胸に提げるリングをひと撫で。それからサイドテーブルの方へと2回転がり、昨日片づけ忘れたコンドームの空き袋を除けてパラパラとパンフレットを捲ってみる。
手持ち無沙汰ゆえの手慰みで開いただけだったが、毎朝毎晩供されるはずだった食事の写真を見た途端、映る美味そうな皿の数々にくぎ付けにされる。
ホテルが衛生的、かつ豪華……っていうか、スイートルーム。それがこの旅唯一と言っていい救いだったが、そのグレードと料金に見合う豪奢さを誇るであろうその食事は、今日まで一度たりとも喉を通っていない。
うわぁ、何このエビ超美味そう。
「……明日の朝くらい、美味いもん食べない?」
「ダーメ」
ページを1枚繰り、載っていた色鮮やかな朝食の写真を指差しながら提案してみる。
だがけんもほろろというべきか、それに一瞥をくれるなり先輩はあっさりと却下してきた。
「言ったでしょ?この地でしか食べられないものを食べるのが目的のひとつなんだって」
確かに、出発前にそう釘を刺されてはいるし、それに了承を返したのは自分自身だ。反論の余地も失いぐうの音も出ないまま黙り込んでしまう。
……かといって、それですべての不満を飲み下せるわけではなかった。
未練たらしく開きっぱなしにしたページを閉じられずにいる俺に、先輩は聞き分けのない子供を見るような灰色の瞳を向け、俺の手からパンフレットを摘まみ上げる。
「こんなの、日本でも食べられるものばかりじゃない」
「いや、一人暮らしにこんな海鮮はなかなか――」
「帰ったら、お礼にいくらでもご馳走するから」
「いや、そういうんじゃなくて――」
「……いかにも観光客にがっかりされないようなメニュー。現地ならではの当たりよりも誰しもに好かれるような『外れじゃない』ものばかり選んだって感じ」
――つまらない。
パンフレットを放り、肩をすくめて吐き捨てる先輩。普段ならせいぜいが苦笑を浮かべるだけで済ませるそんな仕草だった。
「こんなものより、明日の朝は早起きしてさ――」
「……なんすかそれ」
だが、今の俺にはそれが決定打となった。
ちょうど並々注がれたコップに落とされた水滴が表面張力の限界を超えるように、募りに募っていた不満をとうとう溢れさせた。
「え、達也、怒ってるの?」
「ああ怒ってますわ。怒りましたわ」
まるで意味の解らない反応。そう言いたげな先輩の目線を受けながら、ゆらりとベッドから身を起こす。
「じゃあ訂正しますけどね、こっちゃひとっっつも楽しかないんだよこの旅行!」
ついに言ってしまった。
一度は直した先輩の笑顔も、これで戻る事はなくなるだろう。正直に言えばそこに浮かべる後悔よりも、貯め込んだものの解放という後ろ向きな快感の方が勝っていた。
そうなれば口から出る不満は一気に加速していき、それに伴ってひとりでに、視線が先輩の顔から外れていく。
こんな今更履いても仕方のない愚痴の数々が、事態の収拾に一役買ってくれるはずはない。
そう知りながらも矢継ぎ早に浮かんでくる糾弾を、今更止める事は出来なかった。
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