『幼さ故の過ちなど』

 え……何?頭突き?頭突きされたの俺?

 目を開け、状況が理解できたところで何ゆえ先輩がこんな凶行に走ったかは見当もつかない。申し開きを聞くべく後ろ手を床に着いたまましばらく待ってみたものの、先輩は訳を話すどころか頭をどかすそぶりも見せなかった。

 表情も見えないままでは埒が明かないと、ひとまず身を離そうと腰を引いてみるが、動いてくれない。そこで初めて先輩の両腕は俺の背中へ回っていて、アウターの背に皺を残すほど強くしがみついていることに気付いた。

 そうやらどついてきたのではなく、飛び込んできたかったらしい。そう合点がいけば、今シャツの胸元を濡らしているものが先輩の目から滲んだ涙であると理解するまでに、そう時間はかからなかった。


「今でも、本当に誰でもよかったら……最後まで隠しきるよ。家を調べてまでこんなこと、しない」


 やがて顔を上げないまま、時折鼻をすする音を差し挟んで紡がれ始める、先輩の懺悔。一瞬、ひとつとして手掛かりを与えていないハズなのにどうやって家を調べたのかという疑問が頭を掠めた。

 しかしいよいよ鼻声交じりになった声色にとてもじゃないがそんな場違いな質問を口に出せるわけもなく、先輩の体をどかすことも諦め、ただ黙って続きを待つ。 


「私は、伝えるの下手だから、人の気持ち、わかんないから」  


 その言葉の最後は、唸るような嗚咽でもはや声としての体を成していなかった。そして再び堰を切ったように、服越しに覚える濡れた感覚が広がっていった。

 恐らく自分の言葉に、過去の記憶が呼び起こされたからだろう。まるで蔑視とも優越とも取れない声のトーンで「ふつうの」と付け加えるところに、規格外の人間が覚える生きづらさの実感がはっきりと籠っていた。

 恵まれた出自、才覚、外見。先輩はおよそ世人が持たない事を恨みつつ、持つ者を羨むすべてを手にして生を受けた人間だ。それこそ無能オブ無能である俺とは何もかもが違う。皮肉にもついこないだ本人から太鼓判を押されたばかりだ。

 しかし日々の折々で不和やズレといった形で顔を出し、押し隠しながらも奥底に溜まっていくを抱えて生きているというのならば、俺も同じ。要するに上だろうが下だろうが、「ふつう」から出てしまえば往々にしてそこに自分を苛む不都合が生じる。

 やっぱり自分とは住む世界も何もかもが違う。一度は突きつけられ、そして突き放してきたその現実の更に奥。そこには今まで感じた事のないほどに深い共通項が潜んでいた。

 行き場を失った手でその肩に触れてみる。こんなにも小さく、細い。ひとたび力を入れてしまえばくしゃりと潰れてしまいそうだった。

 そこにどれだけの重責を負わされ、彼女はここまで歩いてきたのだろう。


「あの時も、達也にとって辛い事は最初に全部言おうってしたら、全部伝える前に、達也、帰っちゃって」

 

 普段の俺ならば、恐らくノータイムで「当たり前だろ」と返していた言葉。だが彼女の置かれている場所が鮮明に見えた今、冷たくつっぱねる気にはならなかった。

  先輩は強い。その理不尽を全て笑顔で受け止め続け、その上で無責任に方々から向けられる期待に応え続けてきた。だからこそ俺の取った行動――全てに後ろ脚で砂を掛けて逃げ続けていた俺の弱さを計算しきれなかったとしても無理はない。


「このままじゃ、居場所がなくなっちゃうって。そんなの絶対、受け入れられないって」


 だからといって今の先輩には論理の欠片もなく、それは大切にしていた玩具を不注意で落とした子供の振舞いに近かった。

 くぐもった声のか細さと、言葉のつたない訥々さは加速し、そして触れ合う体を通して小刻みに伝わって来る震えもはっきりとわかる程に大きくなっている。

 そのいずれもが普段の彼女からは……というより、彼女が纏う事自体あまりに似つかわしくない、弱さそのものを表している。


「……そらあんだけボコスコに言われれば、誰だって帰りたくもなりますわ」


 思わず返した呆れ文句とは裏腹に、自分でも驚くほど、出した声色には明らかに棘が減っていた。

 今俺が捉えている彼女の姿は、これまでさんざん振り回されてきた二面性のいずれとも異なっている。あくまで直感でしかないが、今目にしているものは先輩のいわゆる芯というか……性格、気質、振舞いといったものの更に奥、先輩の根源的なものに思えたからだ。

 その声を受け、初めて顔を上げたその表情も、鼻水まみれでまぁ美人が台無しになっている。そこには柔和さも余裕も冷淡さも全てが剥ぎ取られた、恐らく成りも振りも全く構うことのない姿があった。

 それはすなわち、自らの弱さをあけっぴろげに晒してまで、本気で俺と向き合ってくれているということ。そう自覚した途端、ふっと心が軽くなった。


「あらやだ、すっごいブッサイク」


 今までそんな表現を向けられた経験に乏しいのだろう。思い浮かべた感想を全く飾らずに口にした途端、先輩の表情が一瞬「無」そのものに変わった。突然の軽いディスに感情の処理が追い付かず、どんな色を浮かべていいかわからなくなっているその目尻を親指で拭ってやる。

 その肌も、覆う涙も、温かい。ほんの数週間程度なのに、ひどく懐かしい思いが指先を伝わってきた。


「な……」


 そんな感慨にふける俺とは真逆。やがてその半開きの口から出た当惑と抗弁の入り混じった声を、背中に回した腕で遮る。

 こんな先輩を見た事があるのが、果たして他に何人いるだろう。俺は頭の片隅に、顔も知らない彼女の親友を思い浮かべ、どこか勝ち誇った気分ですらいた。それこそが彼女の本気――真摯しんしさと言い換えてもいいかもしれない――に見えた以上疑うのは野暮で、矛を収めない理由もなくなった。

 それを絆されたというのならば、否定はできない。


「とりあえず、ひとつだけ確認させて」


 一旦鎖骨の間から先輩の顔を離し、まっすぐ正対するようにその瞳を覗く。改めてじっと見つめ合えばそれなりの気恥ずかしさが胸を覆うが、それよりも――


「今の俺でも、先輩にとっては必要なのね?」


 顔を上げる直前、ちらりと耳を掠めたその一言。それが妄想とか聞き違いじゃないって確認したい気持ちのほうが勝っていた。

 それは状況的に九分九厘必要のないイニシエーションであり、ともすれば過程をすっ飛ばして結果を求めるような性急さの表れでしかなかった。

 だがそれに負けない勢いで、先輩は即座に首を縦に振る。


「それだけわかればいいよ。今度はちゃんと、最後まで聞ける」

「本当?急にいなくなったり、しない?」


 ……保証が欲しかったのは、向こうも同じだったってことだろう。

 等価交換を済ませ、返答の代わりに今度はしっかり強く抱き寄せると、先輩は再びタガが外れたようにわんわんと泣き出した。

 これだけ泣けば喉だけじゃなくて腹も減るだろうし、飯も用意してやらなきゃだな。

 その軽く背中を叩きながら、俺はそんなことを考え始める。

 後で何か買いに行こう。一緒に。

 きっと先輩は泣きはらした目を気にしながら歩き、俺はそれを笑って早く行こうとせっついて、同じ歩調で夜道をそぞろ歩く。

 そんな他愛のない想像をもう一度出来るようになった。

 それをシンプルに嬉しい事と思えるから、きっと今度の選択は間違っていないだろう。


 それが確信であるか、単なる祈りでしかないか――

 今だけはそれすらも、どうでもいい事だった。

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