『水の夜に』
「だーかーら、下を見ろって言ってる訳じゃないの、わかる?」
――なんか、思ってたんと、違う。
空になった弁当箱の山と、雑に開けられたつまみの袋、そして横倒しになった缶が埋め尽くすテーブルをぼんやりと眺めながら、とりあえずの頷きを返しておく。
そんな俺のリアクションに全く納得のいっていない様子で、先輩は瞼の座り始めた目で顎の下から睨み上げてきた。
「いーやわかってない。価値を再発見するには、まずちゃんとげんじょーを理解しないとダメなんだから。あのね、まずあの大学にろーにんせず入れた時点で、ねぇー……」
……いや続きは?
しばらく待ってみるものの、先輩はむにゃむにゃと口を動かしては梅酒の缶を傾けるだけで、結局その先を訊けることはなった。
ああコレがっつり泥酔してるヤツだ。酔いが回りだした人間特有の間延びしたその声は常に、左肩から間近に聞こえてくる。
コンビニ行って帰って支度して呑み始め、そして今に至るまで。先輩はずっと俺の左っ側にくっついて離れようとしない。それがいじらしいとか可愛らしいと言えばそうなんだけど、その態度と今の絡み酒。互いの属性が全くと言っていいほど方向性として一致していないのはどうかと思います。
「とりあえず、一旦水飲んで落ち着いとこ」
「……んー」
脇に置いていたコンビニ袋へ手を突っ込み、ミネラルウォーターのキャップを捻って顔の前へ差し出してやると、先輩は存外と素直に受け取る。だが一度喉を鳴らして口を離した途端に物足りなさそうな顔を浮かべ、結局またハイボールの缶を手に取っていた。
その様にはもはや苦笑しか出てこない。弁当とフライヤーのゴミをかき分け、どうにか手に握る自分のビールを置く場所を作る。
それにしても、こんな漫画みたいに典型的な酔い方する人だったっけか。
霧雨の夜道をふたり、他愛なくそぞろ歩く。
家を出る前、頭へ浮かべていた穏やかな想像。そいつはある程度当たったし、久々に訪れた凪の時間のありがたさを噛みしめもした。
だが、問題はその後だった。向かったコンビニで物珍しさを理由に俺の分とは別に食事をおよそ3人分、アルコールはゆうに5人分以上をドカドカ買いこんだ時点で嫌な予感はしていたが、戻ってからそれはもう驚嘆するしかないって勢いで口に運び出した。およそ先輩には似合わない栄養バランスガン無視のコンビニ飯と質は二の次の安酒。それらを全く遠慮することなく次々胃へとぶち込んでいくその様に、こっちは箸もろくに動かせず、ビールひと缶すら開けられないまましばらく圧倒されていた。
本人曰く、あれからまともに食事が喉を通らなかった反動。来た時の血色の悪さを思い出す限りそいつは嘘じゃないんだろうけど、取り戻すにしたって限度があるだろう。
結果ものの10分そこらでテーブルを来る前より散らかして見せた先輩は、軽く紅潮した顔でこっちに寄り掛かりながら説教じみたヨイショを始めていた。
「……まずね、あの大学に入れた時点で、ひとつ立派な結果は残してる」
あ、続き始まった。
多少水を飲ませた効果があったのか、声にやや輪郭を取り戻して話の軌道を戻す先輩。口調がどうにも褒めているものとは程遠いが、とはいえこうして一応は下げた分を上げるという趣旨は一貫して全うしてくれている。
俺としてはもっとこう、静かに自分をフォローしてくれる時間みたいなものを期待していたんだけど……
「でもさぁ、あんなのはしっかり勉強すりゃ誰でも受かるわけだし、親父言ってたでしょ?どこ入るかじゃなくて、入って何するかが――」
「そこ」
言いかけた俺の頬を、先輩が伸ばした人差し指で差す。っていうか刺す。
痛い痛い、爪がほっぺ刺さってるから。思わず言葉を途切れさせた俺を、先輩は下から上目に覗き込んできた。
「そこが自分を正しく認識してないって言っているの。いる場所そのものじゃなくてそこで何をするかが大切、っていう所。そこは確かにお父さんに同意する。っていうか、した」
あの日の繰り返しに頷きを返すが、心の中へ特に波風は立たなかった。
逃げ出して聞けなかったその先を訊ける、その保証を先に見せてもらっているから。
「でもね、そこに来るまでの努力が無価値で誰でも出来うるものだなんて誰も言っていない。お父さんだってその努力は認めているから、達也が家出るのを黙って見ていたわけでしょ」
「そりゃまあ、そうだけどさあ」
事実を認めつつも煮え切らない俺に、先輩は溜息を吐いて続ける。アルコールの残り香が鼻を掠めたが、見つめてくるその目ははっきりと見開かれていた。
「達也が籍を置いている大学、一応国内じゃ3本の指に入るんだよ?そこには受験しても入れなかった人、そもそも受ける資格すら得られなかった人が何人いると思う?それだけじゃない、弟さんとの試合は決勝で負けたんだよね?そこに立つ前に負けた人、出る資格すらも与えられなかった人、何人いると思う?」
形としては矢継ぎ早の質問だったが、その裏には確かに俺への、俺が成した事への肯定が秘められている。染み入るようなその声に相槌すら忘れる頭は、実家の玄関に飾られている二つ並びのトロフィーを思い出していた。
和也のより一回り小さい、金色の杯を冠した小塔。捨てようと思っていたところを勝手に飾られ、目に入れるのも癪だったはずのその小塔を、今でも飾りのひとつに至るまで脳裏へ克明に描き出せる。
それは単に記憶のもたらすものではなく、未練がその形を結んでいつまでもこびりついているからだった。
「……けどさ、誰も一番に褒めてはくれなかったよ。卑屈になるのもしゃあないっしょ」
先輩から視線を外し煙草へと手を伸ばしかけ、肩口から伝わる温度に止められる。
口では反射で脳から吐き出された軽口を叩いているが、声の調子は明らかに沈んでいた。連鎖して勝手に蘇る映像はトロフィーからフォーカスを外し、父親へ満面の笑みで賞状を掲げる和也と、それを遠くで眺めている俺を映し出す。
自分の記憶であるはずなのに、主観ですらないその光景。思えばあれが自分を冷めた目で見つめるようになった癖の始まりだったのかもしれない。
沈まないようにもがく俺の脇を誰かが鼻歌交じりに通り抜け、どうにか岸に着いた先で貰えるのは誰か得た賞賛のおこぼれだけ。
――いや、それならまだマシなほうだ。
一度ぶつりと途切れた記憶が、今度は入試の合否発表の日へと飛んだ。両親や先生、親しい人と肩を抱き合い喜びを分かち合う人たちの端っこで、たった一人番号を照らし合わせて、何の感慨もなく帰り道へと踵を帰す自分。それもまた他人がカメラを向けたように、その背中を遠くから映すものだった。
その時に覚えた惨めさは、落ちた人間とどうせ大差ない。そいつらにはきっとそこまでの道程を認める者も、慰める者もいるだろう。差し引きすればこっちが下だって思いすらあった。
「いつだって何したって、俺は誰かのついでか、何にも言われないか。なら最初っから――」
「だったら」
再び自虐が遮られ、今まで触れ合っていた肩が離れた。それと代わるように頭のてっぺんへと、ふわりと暖かな感触が伝わってくる。思わず明後日に向けていた視線を戻すと、俺の頭へと掌を乗せた先輩が、両の目を細めていた。
形だけはさっきまでの、酩酊で
「これからは、私が一番に達也を見るから。努力も、その結果も。どんなものであっても」
言葉にするならば、それは慈しみだった。声と一緒にゆっくりと曲げられていくその腕に抱え込まれ、頭が先輩の胸元へと沈んでいく。
「だから、自分にふたをするのは、もう止めよ?」
「あ――」
押し当てられる耳が、彼女の鼓動を捉える。初めて夜を過ごした時に聞いたものとは対照的な、穏やかな波の音が体を満たしていく感覚が広がっていった。
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