『テルミーアバウトユアセルフ(22)』

 掃き溜めに鶴ってやつか。

 普段は俺か、もしくは酔っぱらってぐでんぐでんになった一志くらいしかいない空間。それも食べた後のゴミや空の缶やらペットボトルの詰まったゴミ袋が散乱する俺の部屋。

 その真ん中に今、先輩がひとり所在なさそうに座って、渡したタオルで髪の毛を拭いている。まるで前後が繋がらず、いまいち現実味が湧かないその光景をしばらくボケーっと眺めていた。

 煙草の煙で黄ばんだ壁紙に、雨で濡れた服、か。

 そのうち、シチュエーションも相まってここが見慣れた我が家ではなくいつぞやのホテルであり、俺達はあの時の「やり直し」を要求されているんじゃないか……なんてくだらない妄想が一瞬頭をよぎった。

 いや、やり直すったって、何をよ?

 自問したところで答えなど出るはずもない。バカげた考えを打ち捨てながら台所へ戻り、湯沸かしポットの電源を入れ、戸棚に手を掛ける。風呂場は貸したものの、湯舟まで張ってあげる時間があった訳じゃない。

 何か温かいものでも振舞ってやらないと却ってより体を冷やすのがオチだ……が。

 我ながら甲斐甲斐しいと自嘲しつつ手に取ったインスタントコーヒーの瓶は見事にスッカラカンで、ラベルの裏側と戸棚の奥を歪めて映していた。舌打ちしつつ隣の冷蔵庫を開けてみたところで、何も入っていない庫内を薄暗い照明が寒々しく照らしているだけ。1週間一歩も外に出ず引きこもっていた代償を思わぬ形で見せつけられてしまった。

 とは言ってもさすがに白湯だけ渡すわけにもいくまいよと、軽く首を振って溜息を吐き、アウターに袖を通す。

 そのわずかな衣擦れの音に反応するかのように、それまで背中で延々聞こえていたドライヤーの温風が止まった。首だけをそちらに向けると、俺のスウェット上下に身を包んだ先輩が畳んだ膝から先を少し広げてぺたんと座りながら、顎をくいとだけ上げてこちらを見ていた。

 すこし不安そうなその目はどこへ行くのかと訴えかけてきていたが、気遣いを口にするのも恥ずかしい。白々しく目線を逸らしながら部屋へと戻り、先輩の胸元を横切るように手を伸ばす。

 決してその眼力に負けた訳じゃなく、目的はテーブルに放りっぱなしの財布だった。


「なんか、温かいもん買って――」


 これで、すぐ戻る意思があることくらいは伝わるだろう。

 が、言いながら引っ込めようとした袖に僅かな抵抗を覚え、何かに引っ掛けたかとそちらに目を向ける。そこにはあくまで控えめにアウターの袖を控えめに摘まむ親指の腹と人差し指の脇があった。指から腕、腕から肩。思わず上がっていく視線がまだ濡れ艶の残る髪の毛を経て、こちらを射抜く先輩の目と交錯する。


「いや、すぐ戻るから」


 返しにも無言、そして強まる下方向への圧。

 結局俺の体は摘ままれた2本指の力だけで着座させられることとなり、部屋の中でアウターを羽織ったままという間抜けな恰好のまま先輩と対面することになった。

 ……どうしたものか。

 向かい合ううちにふわりと鼻先をくすぐってくる、自分が使っているものと同じとは思えない芳香が、長らく嗅覚を支配していた壁紙に染みつくヤニの匂いを上書きしていく。貸したスウェットはやっぱりというか彼女には大きすぎるようで、サイドから伸びる普段より緩くなったウェーブが、大きく開いた襟へと延び、その合間から確かに主張するふくらみは、しばらく見ていないせいか心なしか大きく――

 いやいやそうじゃないだろ。

 とりあえず今はいたたまれなさに彼女から視線を逃したい。

 だがどうしてか逸らせられない。

 と逆になった立場と感情のまま、部屋にはしばらく秒針の音だけが響いていた。

 その内に台所のポットがパチンと音を立て、湯が沸いたことを伝えてくる。最早無用の長物となったそれに背中を押された感じがして、俺はやっと沈黙を破る事が出来た。


「結局、何しに来たわけ」


 家に入れたのはあくまで不可抗力だった。

 それを改めて知らしめるように、出来る限り不機嫌を装いながら問いかける。 

   

「ちゃんと、最後まで話、聞いてほしかったから」


 やや目を伏せながらぽつりと零されたその言葉に、内心開いた口が塞がらなかった。

 ……まさかの追い打ちですか。真意を露わにした相手には嗜虐趣味を隠すつもりはないという事だろうか。


「違うよ!」


 思いっきり歪んだ顔をそのままに見返したことが、頭の中に浮かんだ思考を存分に映していたのだろう。半眼を向けた俺が口を開く前に、鋭い叫びで先輩が遮った。それと同時に上半身を乗り出してきたことで、俺の視界全てが彼女の顔で埋まる。

 どこにも目を逸らすなと、今この瞬間だけでも、自分にのみ集中しろと言外に語っているように。

 俺は退かず除かず、互いの鼻先が当たる程の距離で、静かにその眼を見返していた。ただ気圧されたわけじゃなく、その奥にあるものを探るために。

 そうして対峙する先輩には、周囲の言動とそこから来る影響をただ緩やかに、あるいはただ静かに、硬軟を織り交ぜて尚その身不動を貫くといった普段の気質はすっかり鳴りを潜めている。代わりに揺れる瞳が伝えてきたのは始めて見る、だが紛れもなく純粋なものとして滲み出る必死さだった。


「ここまで来たのは、もう達也に嘘をつきたくないから」 


 それだけ、続くその一言を聞き逃されたくなかったのだろう。

 そこまでの態度を取られれば、わざわざ家を調べてまで死体を蹴りに来たわけではないということは存分に伝わって来る。

 けど。


「最期に全部ネタバラしってこと?ご丁寧なこって」


 それが必ずしも、俺の望む道に繋がる確証はない。

 これ以上傷を増やされる可能性を厭う口が、ひとりでに拒絶を紡いでいた。突っぱねられた思いに先輩が一瞬目を見開き、やがてがくりと肩を落とす。

 その様を見てどうしてか、俺には薄い笑いすらこみ上げて来ていた。

 こうやって当たってほしくない予想を自分から迎えに行けば、そいつが『ああ、やっぱり』という緩衝材となり、痛みを和らげてくれる。

 それは何も得られないまま大きくなった脇役がいつしか学びを得た、心を守るための布石。今や完全に俯いている先輩には見えていないだろうけど、大仰に肩をすくめて半笑いを漏らしてやる。


「利用したせめてものケジメに――」


 続ける捨て鉢の言葉を吐き出しきる前に突然ぐわん、と視界が揺れ、体がくの字に折れる。


「げふ、げふっ」


 ――一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 みぞおちへと走った強烈な衝撃に咳が止まらず、思わず目をつむる。それまで編み上げていた諦めは当然だが肉体的な防御としては意味を成さず、腹の奥に広がっていく鈍痛が勝手に背中を丸めていった。

 肺の奥まで空にしてもなお絶えずこみ上げてくるえづきに瞼も開けられないまましばらくの間悶絶し続け、ようやく落ち着きを取り戻すころ、へそのあたりからシャツを通して生暖かい感覚が広がってきた。

 そう言えば、結局俺の腹に何がぶつかってきたのかも理解していない。衝撃の大きさからして拳で殴られたいうわけではなさそうだが……ゆっくりと目を開けると、そこにはくの字になった俺の体に収まるように先輩の頭が収まっていた。

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