『テルミーアバウトユアセルフ(15)』
小学3年の夏。ごっこ遊びに夢中になって台所の皿を派手に割り、それを下手な嘘で隠した俺を、親父は
中学3年の春。格闘技の大会の決勝で和也に負けた翌日、誰にも言わずに退会届を出しに行った俺を、親父は
高校1年の秋、初めてのバイト先で店長の軽い説教をもらい、それを理由にシフトを放り出した俺を、親父は
そして高校2年の冬、進路希望調査書を白紙で出した俺を、親父はもう叱らなかった。
それからは俺も親父も互いを認識することなく、視界に入れたところで眉ひとつも動かさない生活を送り出す。まるで存在する位相が異なるかのように徹底された無視と無関心。
母伝手に下された『家を出るならば、最難関と言われているこの大学の門を潜れ』という条件。今思えばそのハードルを越えた原動力は意地の一念ではなく、先にその空気に音を上げた心が逃れたい一心で、火事場の馬鹿力を出しただけだったのかもしれない。
「聞こえなかったか、性根と一緒に耳まで腐ったようだな」
「てめぇ……」
その裏打ちのように、沸き上がる怒りと同時に懐かしさすら覚える圧迫感が、心の余裕をどんどん削っていく。
たとえ同じ事を言われたとて普段の俺ならば、あるいは相手がバイト先のクレーマーだったらならば、皮肉のひとつも交えて余裕で受け流せる文句であるにも関わらず、頭に上っていく血を止める事が出来ない。
「何度でも言ってやる。お前は目の前の辛苦から逃げる事しかできないクズだ。大方家を出たのも俺から――」
「ちょっとやめてよ!父さん!」
慌てふためいた和也の声が親父を遮り、スピーカーからは軽いもみ合いの音が聞こえてくる。
俺としてはまさに思い浮かべていた正鵠をガッツリ射られて言葉を失っていたところだったので、そのインターバルに正直、内心が安堵に包まれる。
「ごめん兄ちゃん、父さん休日だからちょっとお酒入ってるってだけで――」
だが、それで言われっぱなしの心が収まるかと言えば別の話。
そこへ和也の下手なフォローが加わったことで余計手に力が入り、ベコベコにヘコませた缶を大仰に振りかぶってクズ籠へと投げ入れる。淵に当たった甲高い音が、雨脚に尖ったアクセントを添えた。
「じゃあ誰が運転すんだよ」
自分でも引くレベルのドスが利いた声に、ひっと小さく悲鳴を上げた和也がスピーカーから距離を取ったのが分かった。
もしかしたら単に、車を出す必要のない距離に店を取っているのかもしれない。だがもはやいくら弟の言葉といえ、軽々に信じるつもりは毛頭なくなっていた。
「親父出せ、和也」
続く俺の要求に、和也は数秒の沈黙で戸惑いと迷いを見せてきた。その
結局自分の背後と電波の向こう、両方に無言で重ねられる催促に折れる形で、和也は再び親父に端末を明け渡した。
「無能が吠えたところで虚しいだけだな。さっさと通話を切ったらどうだ?逃げ出すのは手のものだろう。和也には後で俺から謝っておいてやる。それすら出来ないお前の分もな」
恩を着せる、というよりはそうすることで屈辱を与えて、こちらを更に見下す為の文句に鼻で笑いを返してやる。
「嫌味の在庫が尽きでもしたか?寄る年波には勝てませんなあ。あぁ元々脳みそが小さかったんですっけ?どこの大学も入れなかったくらいだもんねえ」
――だから母さん越しに、俺にあんな条件付き付けたんだろ?
一拍置かれたことで少しだけいつもの調子が戻ってきた頭をフル回転させ、親父が持つ数少ないコンプレックスを容赦なくえぐってやる。これで激昂でもしてくれれば一気にこっちのペースへ持っていけるのだが、そうは甘くなかった。
「まったく和也が誇らしいよ。あの年で俺を超えてくれる」
「……へぇぇー」
掴んだ襟元をこともなげに外された苛立ちを押し隠し、代わりに勝ち誇った笑いを返してやる。
「じゃあ俺もアンタよかとっくに先のレベルにいるって認めるわけだ。なんせあいつのいくところより偏差値――」
「その視点が愚かだというのだ」
「あんだと?」
「和也はもう入学前から自分の進むべき道が見えている。幼稚な動機で進学先を決めたお前とは根本的に性質が違う」
「……はっ、ぐだぐだ並び立ててっけど、言いたいことは結局負け惜しみっすかぁ?」
動揺を悟られないために取り繕った挑発。そんな表情の裏まで既に見透かしているように、親父は呆れかえったため息を聞こえよがしに吐き出して続けた。
「――なら訊くが、お前はそこに入って何を得た?」
静かに放たれた一言に、瞬きすらも忘れる。
作為的にまで穏やかな口調とは裏腹に、その言葉は研ぎ澄まされた桐のような鋭さで俺の最も深くに突き刺さった。
無言の悲鳴を上げる心の臓から伝わる痛みと熱に、端末を持つ手がかたかたと震えだす。
「そこで何を成した?そして先に何を見ている?……くだらない意地で勝ち得た自由で、今お前は何をしている?ひとつでいいから言ってみろ、胸を張れるような実績を」
言えない。言えるわけがない。
それは単に今、犯罪まがいに想い人を追いかけているという現状の話だけではない。入学して1年そこらで突きつけられた無味無臭の絶望に、俺はまだ囚われ続けているのだから。
それは流れているものの半分を同じとする血のなせる業か。悔しいかな電話の向こうでただ答えを待っている親父は、それすらも見透かした上で敢えて問いかけの形を執っているのだろう。
「……学府の価値とは何処の門を叩くかで決まるものではない。そこで何を見つけ、何を学び、何を成しえるかだ」
そして答えが返ってこない事をも分かりきっていたように、親父は俺が苦しむだけの沈黙をたっぷりと挟んだ後、つらつらと続ける。
叱るでもなく、諫めるでもなく、怒るでもなく。そこにただ諦めだけを乗せた乾いた声は、どんな怒号よりも心を締め上げていく。
「俺は大学に行かなかった。学歴という点でお前に劣ることは認めよう。だがお前の歳のころには既に望む職に変わり、母さんを養い、お前という子を設ける支度を済ませていた。俺なりに足を固め、未来を見据えていた」
――まぁ、いざ生まれてきたのがこんな情けなく育つことだけは、予見できなかったがな。
続く容赦のない非難にも返す言葉一つすら見つけられないまま、あてどなく彷徨い出した足が庇の下を離れ、降りつける雨に体を晒す。
「ようやくわかったか、お前と和也、そして俺との違いが。折り返しを迎えてなお何ひとつ得られないような半端者が祝いの席に来るなぞ、許さん」
「……言われなくても行かねえよ、クソが!」
ズタズタに裂かれた
がしゃん。
俺は、何をやっているんだろう。
親父が投げかけた最後の問い。
頭の中に何度も反響するうち、それはいつの間にか自分自身の声へとすり替わっていた。今日だけで何度浮かべたかわからないその疑問は今やその意味を変え、奥底に眠らせていた失望とひとつになった。
そうして形作られ、深く突き刺さった――あるいは今更表面にその身を出した――自傷の刃がもたらす痛みに、指先ひとつ動かせないまま、ずるずると地面にへたり込む。
それからどれくらい時間が経っただろう。絶え間なく全身に叩きつけられていた雨の感触が不意に途切れ、体がふと軽くなった気がした。
上から押し付ける力が消え、そこでようやく顔を上げた先には。
「やっぱり、達也だ」
自らが雨に濡れる事も全く厭わない様子で、こちらに傘を傾ける先輩が柔らかな微笑みを浮かべていた。
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