『テルミーアバウトユアセルフ(16)』

 蝙蝠傘が作る狭い影の中で、軽く膝を折る彼女と見上げる俺の視線が交差する。

 数秒、あるいは数分。怒るでもなく、蔑むでもなく。訝しみすら匂わせないその瞳が、ただただ慈しみだけを称えて、俺の言葉を待っていた。

 決して突然目の前に現れた先輩の姿に混乱しているわけじゃあない。むしろこうして対峙したことこそ全ての目論見がご破算に終わった瞬間だったにも関わらず、それで心の中がなおのことかき乱されるようなことはなかった。

 ……あるいは、もうこれ以上乱されようがないほど、ボロボロであるだけかもしれないが。


「どうしてここに?」


 それから更にいくばくかの間を挟んで、ようやく投げかけられた俺の言葉に、先輩はこっちの台詞、と笑った。


「びっくりしちゃったよ。一息つこうって飲み物買いに来たら、知ってる声がいきなり聞こえてくるんだもん」


 ――あんな風に怒鳴られたことはないけど。

 そう付け足してから思い出したようにぶるっと肩を震わせた先輩が、だらりと地面に垂れている俺の腕を取って軽く引っ張る。


「もう遅いかもしれないけど、ひとまず避難避難」


 通話の間中雨に晒され続けた体はとうに冷え切ってるし、たっぷりと雨水を吸った服は倍以上重さを増しいる。もしひとりでいたままだったら空が晴れようが夜になろうが、もしかしたら服が渇いて日が昇っても動けずにいたかもしれない。

 そんな気力の萎えきった体でも、先輩の手に引かれると不思議なほどにすっと立ち上がる事が出来た。気付かないうちに服越しの腕から掌へ握る先を変えた先輩の小さな手。そこから伝わる唯一の熱に導かれるように、死に体の心を収めた入れ物はベンチへとたどり着く。


「ここ、いつもの喫煙所と似てるね。ベンチの並びとか、屋根のかかり具合とか、さ」


 びちゃり、という耳障りな音を立てながら腰を下ろす俺を見届けた後、背を向けて自販機の方へ歩きつつ、そんな他愛のない話題を浮かべた。


「え、あぁ」

「それにこのシチュ、懐かしいね?」


 ぼんやりと、ふたりして雨を凌いだカフェのオーニングを思い出す。見上げた巻き取り屋根はこんなくすんだ色もしていなかったし、錆びついたトタンでもなかったけど。

 あの時と今、何もかもが異なる状況を思えば、相応しいと言えばそうかもしれないけど。


「あの時も仲良くずぶ濡れで……雨に縁があるのかな」

「……そう、なのかな」


 そんな事をに考えを飛躍させていたせいで反応が遅れ、胡乱に返したそんな生返事ですら、先輩は満足してくれたようだ。あるいは俺の意識がほんとうにそこにあるかという確認も兼ねていたのかもしれない。

 小銭を飲み込んだ自販機が明かりを灯し直す。息を吹き返したようなその様子と、ぼーっとそれを眺めている俺とを一瞬見比べてから、先輩は少し汚れた指の先で、缶コーヒーのボタンを2度押した。

 先に落ちた真っ黒とそれにぶつかるブラウン。出てきた色の異なる缶を手に取って戻ってきた先輩は、迷わず後から出てきた方を俺に手渡してくる。

 いつもはふたり同じ銘柄を買っているのに。僅かな疑問を覚えつつ受け取ってラベルを回してみると、そこにはミルクとシュガーがたっぷり入った事を謳った宣伝文句が書かれていた。


「雨脚がもうちょっと弱ければ、風情もあるんだけどな」


 配る細やかな気遣いを恩に着せる事もなく、横に座った先輩のトラッシュトークは手を変え品を変えて続く。

 その話声とプルタブを持ち上げる音、ベンチの軋みや僅かな衣擦れ。ふたりでいるだけで新しい音はこんなにもたくさん生まれていった。

 そうして薄れる孤独の中でも気の利いた言葉ひとつ履けないまま、カフェオレの缶を口に付ける。

伝わる熱でかじかが解けた掌で傾けると、先輩の手に感じたそれとは違った粘り気のある温かさが体の内側を流れていった。

 

「……少し落ち着いた?」


 半分ほどを呑み終えたところで聞こえてきたのは棘のある、という表現から最も遠い声だった。それでもトタンを打つ雨の音にも全く減衰しないまま耳に届くのは、自分が無意識にその声を求めているからなのだろうか。

 無言のまま首肯を返す俺に、先輩はただの一言「良かった」と呟いたきり、再び静かに喉を鳴らす。


 ――聞きたいことが、あるんじゃないのか。

 それは先輩に投げかけるべき問いか、それとも自分に向けての確認か。どちらか判別のつかないままの思いは、どうあれ口から出てきてはくれない。

 それでも何度か努力はしてみた。だが無理やりに肺へと息を送り込み、先輩の方を見る度、丘で溺れているかのように呼吸を乱すだけに終わる。そんな徒労の果てにわざとらしく缶を傾ける俺を、先輩は声や態度で急かす事もなく、ただじっと待っている。

 何度も繰り返せばやがてカフェオレは底をつき、中身を失った缶だって温もりを失っていく。

 そうして握るアルミが指先と同じ冷たさになった頃。


「先輩はどうして、俺と付き合ってくれているんですか」


 やっとのことで喉から絞り出したのは音も文節も込める意味合いも、その全てが思い浮かべていたものとは全く異なる、いびつに歪み果てた言葉だった。

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