『テルミーアバウトユアセルフ(14)』

 言葉が出てこない。

 いや、それ以前に頭が回らない。

 実家を出てから3年ぶり、自分に向けてのものとしてはそれより遥かに長い期間耳にしなかったその声が、見えない縄となって俺の喉と思考に絡みついていく。わななく空の左手がそばに置いていた缶に触れ、気付けば寄る辺を求めるように握りしめていた。


「……いつまで黙ってるのさ父さん。ちょっと返してよ」


 数秒か、それとも数分か。時間の間隔すら曖昧な中で俺が言葉をっているうちに、スピーカーの向こうから微かに耳慣れた声が聞こえてくる。


「ごめんね兄ちゃん、父さんいきなり電話ひったくるからさぁ……」

「――和也」


 性質を真反対とするような柔和そのものの声に少しだけ自由を取り戻した頭が、どうにか主の名前だけを口にする。しかし喉が震えてくれたのはそこまでで、それに続くべき「どういうことだ」という疑問や「何してるんだ」という憤りは、射竦いすくめられたばかりの頭では浮かべることすら叶わなかった。

 だが和也の持つ利発さはその沈黙の意味をすぐさま読み取り、そしてある意味での優しさが追及を捨ててくれた。場を改めるように小さく咳ばらいをひとつして、俺の返しを待つことなく静かに続ける。


「兄ちゃん、今晩いっぺんこっち帰ってこれないかな」

「――え?」


 ……なんで?

 字面そのものをなぞっただけでは繋がらないその意味を図りかね、間抜けな声を出してしまった俺に、和也はええと、と少し勿体ぶるように一拍を置いた。


「実はちょっと前に、学校で進路希望調査があってさ」

「あ、ああ。もうそんな時期か」

「このままいけば指定校推薦の枠取れるだろうって、先生に言われたんだ。それ母さんに言ったらすっげえ喜んでさ……まだ決まったわけじゃないのにね」


 照れ隠しか、和也は言葉尻に苦笑を交える。

 兄としてならば、そして普段の俺だったならば、大仰なリアクション付きでその出来事を祝ってやる事が出来たかもしれない。だがだんだん覚え始める妙なざわつきが、俺にそんな迂闊うかつな口を開くことを許さなかった。

 穏やかではない心中を押し隠して相槌だけを返す俺を尻目に、和也の説明は続く。


「で、今日は父さんも休み取れたから、前祝に家族でご飯食べに行こうって事になったんだけど……」


 そしてやはりというべきか、予感は的中する。普段と変わらない陽気さのまま、和也は俺にあの親父と再び食卓を囲めという無理難題を突きつけてきていた。

 本人は謙遜しているものの、2年生にして全国模試の上位常連である事を考えれば、担任の下したその判断が後々になって覆される可能性はほぼゼロと言っていいだろう。体よくサボっている現場を押さえてはいるので出席日数の計算ミスだけが心配だが、俺と違ってそこまで詰めの甘い性格ってわけでもない。それを鑑みれば母親が宴席を設けるのも別に早計だとも思わなかった。

 そして何より和也はそれを祝福してほしがっている。大方、それを俺と親父の犬猿ぶりを何とかするきっかけになれば、と気を回してもいるんだろう。


「でもな」


 口をついてでた文句は和也に宛てたものではなく、惑う自分に対しての意味合いが大きかった。

 和也に悪意はない。そんなことは分かりきっている。

 たとえ数時間耐久作り笑いをする羽目になったとしても、望みに答えてやるのが年長者としての務めだろう。可愛い弟が努力の末勝ち取ったハレの日なのだから。

 ああ、全くもって正論だ。


「兄ちゃん今外みたいだけど、もしかして……取り込み中だった?」


 しかし倫理観の棒で頭の中をいくら叩いたところで、俺は祝福と承諾の声を返す事が出来なかった。再び黙り込む俺に気分を害してしまったと誤解したのか、動揺を全く包み隠さない声が続く。葛藤する俺と言葉を探しあぐねる和也の間、一層強さを増した雨に連れてこられた風が一薙ぎし、周りの木々を激しく揺らした。


「ってか音、すごいね……兄ちゃんこんな雨の中外で何してんの?」


 和也にとってそれは膠着こうちゃくした局面をしのぐ以外の目的を持たない、他愛のない場繋ぎだったのだろう。しかし今の俺にとっては最も訊ねられたくない質問と言えた。

 片や誰の目にも輝かしい成果を出し、あまつさえ祝いの席にはぐれ者となった兄を招待するほどの出来た弟。

 片や誰にも言えないような犯罪まがいの事をしながら、弟の慶事と気遣いに応えられない兄。

 口にした和也に一切の他意はないとわかっていても、そのあまりにも明暗のはっきりした比較が言いようのないみじめさを胸へと運んでくる。

 開いた膝の真ん中に両肘をつき、項垂れて握った空き缶を見つめる。

 逃げたいのは山々だ。だけどここで自分の意向を優先したならば、後々もっと自分がみっともなく思えてしまうのではないか。

 それに俺が会いたくないのは親父だけだ。和也に嫌われるのは本意じゃない。


「兄ちゃんと父さんの間に色々あるのはもちろん知ってる、けどずっと喧嘩したままってのは寂しいじゃない」


 ペラッペラな言葉だ。だがその薄さゆえに張り詰めた心に走れば、たやすく傷を付けていく。幼稚さは取り繕いのなさとも言い換えられ、縋るような口調がまぎれもなく和也の心底から出た言葉だという事を裏打ちする。

 俺には勿体ないくらいの、良い弟。

 今となってはこんな俺に代わらず接してくれる家族はあいつだけなのだ。その接点さえも失ってしまえば、俺はいよいよ石井家の人間とすら言えなくなる。

 あの家に未練があるわけじゃない。だが自分の属性をひとつ喪うという事を思ったとたん、言葉にできない恐れのようなものが沸き上がってきた。


「俺、は」


 しっかり会って、祝いの言葉を送ろう。

 そして数時間の間だけ目を伏せ、耳に栓でもおこう。

 ゆっくり、ゆっくりと心の向きを入れ替えながら、朴訥と声を吐いていく。





 ――代わりなさい、和也。

 そんな俺なりの努力に何の価値も見出さない声が、遠く聞こえた。戸惑う和也の気配が遠ざかるのがスピーカー越しでも分かり、空気は再び重く張り詰めていく。


「……優柔不断もいい加減にしたらどうだ。弟にかこつけてみっともなくただ飯を食らいに来るか、子供のように下らん意地を張り続けるか、さっさと決めろ」


 冷淡な侮蔑の文句が言外に語るのは、歩み寄る気は微塵もないという確固たる意志だった。


「どっちがガキなんだよ」

「お前だ。いや訂正しよう、子供に失礼だった。お前はそれ以下だ」


 一瞬、雨の音が全て消え去ったような錯覚を覚えた。

 ひとりでに目は見開かれ、筋を立てた拳が握った空き缶をひしゃげていく。


「何もかも半端で逃げて、何も残せない愚か者。そんなものと一緒にされてはたまったもんじゃないだろうな」


 ……なんで俺が、ここまでコケにされなきゃなんねえんだ。

 底の底まで落ちた気分が、まるでマイナスのオーバーフローを起こしたように反転し、途端に頭のギアが回り出す。


「――あぁ?」

 

 語尾を上げ、がんじがらめになっていた頭の中を怒り一色で染めやれば、思考をの戒めなぞ簡単に引きちぎる事が出来る。同時にそれは大人になって親父の冷めた目や嘲りに耐え忍ぶという選択肢を捨てた瞬間だった。




 ごめんな和也。

 俺と親父の溝は、お前が思っている以上に深いんだよ。

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