『テルミーアバウトユアセルフ(13)』

 ――かんっ、からっ、かららら。

 最早すっかり耳が慣れ、音として意識もしなくなっていた雨音。切れ目なく続くその合間に、身じろぐ俺のケツに押されてベンチから落ちた空き缶が乾いた悲鳴を上げる。


「やべ……意識、トんでた」


 環境音に加わったそのアクセントでまどろみから引きずり戻され、脇に置いて抱えるようにもたれていたヘルメットから身を離してあたりを見回した。

 ……なんだここ?

 未だ寝ぼけの混濁を引きずる頭が一瞬、自分が目覚めた場所への疑問を呈してくるけど、低血圧気味の頭は立ち上がりが遅い。

 ひとまずそいつを仮置きして腰を伸ばし、口の端に垂れるよだれを拭った手をベンチの隙間に差し込んで、荒いコンクリートの上に転がされたお茶の缶へと伸ばす。

 指先に触れた途端伝わってきた冷たさに、寒さを思い出した体がぶるりと震えた。もしあのまま起きなかったらやがてこいつと同じ温度になっていただろう。そうなれば寝落ちどころか永遠に目覚めない可能性もあった。そう思うと別の意味での寒気が体をよぎり、ジャケットの前を締める。

 しかしなんで俺はこんなクソ寒い雨のド田舎でお昼寝していたんだっけ……

 

 そうだ、先輩――。

 体を動かしたことでようやっと正常に働き始めた思考が当初の目的を思い出し、慌ててバッグの中の端末を取り出し、ロックを解除してほっと一息。

 幸いにも、というべきか。再び光を灯らせた液晶の地図には、ベンチに座る前と変わらない位置で先輩を示す光点が浮かび上がっている。状況はなんら動いていないということだ。

 変わったのは、画面の右上隅に表示されている時刻だけ。60進数の桁は知らない間に繰り上がり、15時を半分ほど消化しようとしていた。

 見当がつく。眠りに落ちていたのは30分ってところか。慣れない道を慣れない車体で走った上、尾行がバレないように尖らせていた神経が温かいお茶にほぐされ、そいつが眠気となってずるずると意識を奪っていった。その起きてるんだか起きてないんだかわからない時間も含めれば小一時間、未だに体の芯に重みにも似たダルさが残るあたり、この短時間で目覚められたのはむしろ幸運と言えたかもしれない。


「――うぇっぷしっ!」


 この倦怠感が風邪の引き始めじゃない事を祈りつつ、首を乱暴に振って関節を慣らし、気を取り直して端末とのにらめっこを再開……したのはいいんだけど、俺が目を覚ましたところで都合よく何かが始まるわけでもない。時々背中を捻って様子を伺う最奥のコンテナも、相変わらず沈黙を守り続けていた。

 緩めた緊張が再び張り詰める事のない、平坦な退屈。その影である意味での危機が忍び寄ってくるのを薄々感じつつ、それから一歩でも逃れんとばかりに雨脚に紛れてコンテナの前まで足を運んでみる。

 だが結局何の収穫もなくベンチに戻るとなれば、それもやがて無駄な抵抗に終わった。ベンチからコンテナ前への往復を5回ほど繰り返したのち、いよいよもって再び訪れた眠気が、今度は本格的に牙を向いてきた。

 もはや腰を上げようが足を動かそうが、ベンチに座り直した途端速攻でまぶたが降りてくる。持て余す時間と染み出る疲労、そのどちらかでも紛らわさなければあと10分と持ちそうにない。そうして再び落ちてしまえば待っているのはとっぷり暮れた日と無人に戻ったコンテナを前に途方に暮れる自分……ならまだしも、三途の川でばあちゃんと茶を飲む羽目になった日には本気で笑えない。何か、何か暇つぶしはないか――


「あ」


 一度端末の地図を閉じ、アプリの一覧を出そうとホーム画面に戻ったところで初めて、電話のマークに「1」という数字が刻まれていることに気付いた。それと呼応するように日向和田の駅からここに向かう途中、すっ転びそうになった時電話が鳴っていた事を思い出す。

 少しだけ眠気を遠ざけてくれた、新たな疑問。その根元を調べてしまうことに僅かな勿体の無さを覚えつつ着信履歴を開いてみる。そこで例えばアドレス帳に載っていない、見知らぬ市外局番から……とかならばさらに頭も回ったのだろうが、生憎先頭に表示されている名前はよく見知ったものだった。

 というか名字が同じ、和也からだ。

 そういえばあいつとも先輩の写真を無理やり撮られて以来、すっかり顔を合わせていない。さしもの秀才も高校生活を折り返し、意識せざるを得なくなってきた受験に本腰を入れているのだろうと思い、特段不審にも思わなかったが……なぜ今になって?

 入れ替わりに生まれた新たな疑問にしばらく迷い、もう一度コンテナの方を見やってから、屋根の裏を仰ぐ。今陣取っている休憩所とはそれなりに距離がある上、この雨脚だ。多少声を出したところで壁一枚隔てている先輩に聞こえる可能性は限りなく低いだろう。念のため視線をそちらに向けて置けば、万一出て来るタイミングと被ったところで即座にオンフックして物陰に隠れられもする。

 そして何より、眠気を覚ますには誰かと話すのが一番の対策だ。ベンチの端に横座りする態勢を取り、視界の端へ無理なくコンテナを捉えられるようにした上で、発信者の名前を押してやる。

 はてさて、一体何の用事か。

 雨音に負けそうな呼び出し音は3度数えたところで切れ――


「雨がやかましいな……ふん、外か」

「……は?」


 聞こえてきたのは和也と似ても似つかない、不躾で無愛想な低い声。突然の事に理解が遅れた――あるいは、理解したくなかったのかもしれない――脳が一瞬遅れてその主の姿を浮かべた途端、身体は一気に強張った。


「相変わらず遊び歩いているようだな」


 そこには抑揚というものが一切消え去っているにも拘らず、こちらへの侮蔑の念だけは存分に伝わって来るその声に、強く噛みしめた奥歯が音を立てて軋んだ。


「どうした、挨拶もまともに返せないのか。大学まで進んで何を学んでいるのやら」


 なんでこいつが、和也の電話を持ってるんだよ。

 いや、奴とのを考えればそれもあり得ない話ではない。だがそれこそ『今になってどうして』という疑問は和也に対していだくそれとは何倍も重みが異なっていた。

 寒さからくるものとは違う、そして恐れから来るものではないと言い聞かせる震えが体を支配する。直接の対面ではない事が唯一の救いではあるものの――


「親、父……」


 それは数年ぶりに訪れた、不俱戴天の敵との予期せぬ邂逅だった。

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