『FIRST DANCE SCENE(4)』

「何が」


 ――やべっ。

 慌てて口元を抑える。

 思考が漏れた。思った以上に回っていたアルコールが口を緩くしていたようだ。

 『何が安心なのか』だって?そんなもん迂闊に確認してみろ。それこそ戻れなくなるぞ。


「……?」


 僅かに目を開いた美恵先輩が、詰まった俺の言葉を静かに復唱しながらこちらを覗いてくる。

 このぐっちゃぐちゃな頭の中、本当は全部見透かしているんじゃないだろうな。

 閉じた口の中で舌を彷徨わせ、良い切り替えしを探しあぐねているうちに、呑気な声とともに暖簾が内側へとまくられた。


「大変お待たせいたしましたー」


 その呑気な声は俺にとって、まさに天の助けと言えた。

 ネーミングに気を惹かれただけで注文したものの、その後の展開を経てもはや何て名前かも覚えていない焼酎のロックがふたつ置かれ、店員が一礼して去っていく。

 流した目でその背中を見送った後、美恵先輩は改まった様子でグラスを持ち上げる。淵を握る細指越しに鋭さを増す瞳と、端から覗く緩んだ口角。それぞれの相反はどこか挑発めいたものを匂わせていた。

 仕留め損ねた悔しさを隠しているのか、それともこの状況を楽しんでいるのか。どちらにせよ確実に主導権を握られつつある。

 呑まれるな。酒にも彼女にも。

 心にそんなスローガンを掲げて、ため息を装い深呼吸をひとつ。それから彼女に倣い、俺もグラスを持ち上げる。

 喧嘩しているわけでもないのに、週末の居酒屋に似つかわしくないヒリついた空気……さながらこのテーブルはメインイベント真っただ中にあるリングの様相を呈していた。観客はいないけど。一志でもいたら恥ずかしさだけで死ねる。

 展開としては俺の足……ならぬ口が滑って牽制の刺し合いから一転、互いに一打必倒のクロスレンジにまで距離が詰まった。そして動揺のあまりがら空きの顔面を先輩のカウンターが捉えるすんでのところで、店員というレフェリーに割り込まれて命拾い。


「いい音しますね」

「高いからかな」


 ならば改めての乾杯でグラス同士が立てるこの音は、さしずめ次ラウンドの開始を告げるゴングといったところだろう。

 まずは、切れた流れをこちらに引き寄せなければ。


「……仮に興味があったら困るってこと?」


 グラスを置いて、まずは角度を変えた質問で先制を取る。

 踏み込みは浅く、出方を伺う意味合いの強いジャブだったが、先輩の手がグラスを傾けたまま止まった。


「それとも、単にサシ呑みでの礼儀の話?」


 その硬直を見逃さずもう一発放ち、焼酎の香りが残る上唇をひと舐めしてから口を閉じる。

 この後の反応如何いかんで、こちらも対応を変えていかなきゃならない。

 2択……と見せかけて後者は釣り針。いわばこの質問自体、次への布石だ。

 更に返事次第でこの後に切る可能性がある、リスキーな鬼札。こいつはそれを盤石な態勢で切る為の露払いも兼ねている。

 さて、どう出る?


「……さぁ?」


 こくりと喉を鳴らして焼酎を流し込んだ美恵先輩は、下げないままのグラスで口元を隠してくすくすと笑う。

 見え見えのフェイントに食いつきもせず、受け止めもせず。玉虫色のワン・ツーでは体勢どころか構えすら崩すに至らず、あっさりと受け流されてしまった。

 漏れた笑いはおそらく、こちらの意図も見透かしての反応だろう。


「さぁ、って――」

「どっちだと思いますー?」


 それどこか、打ったはずのこちらが鮮烈な返しを食らう羽目になってしまった。

 口調こそふにゃふにゃだが、その目には微動だにせずこちらを射抜いていて、そこに酩酊も動揺もない。

 手の内は明かさずカウンター狙い。こちらに打たせる試合運びを目論んでいる。取る戦法は俺と一緒ってところか。こういうところが似てもうれしくない。


「……それ、俺に訊く?」

「というか、どうしてそんなこと気にするんですか?」


 ――また返されたー!石井選手の体がくの字に折れるぅ!

 そんな実況が聞こえた気がした。実際まだ大して酔ってないのに目の前が歪んだ。

 即興にしては上出来と自讃していた戦術が、仇となって牙をむく。

 本来ならば、『困るか』という推量と対にして問いかけるべきは『嫌か』というワードだった。一見して似たような意味を持つふたつのことば。だがその間にははっきりとした差がある。

 困るにはが必要だが、嫌というのは自分に端を発する生理的な反応であり、そこにはどんな理不尽な根拠があっても――あるいはそれすらなくても――許されるという点だ。

 目の前にいる男がほかの女を気に掛けることに覚える不快。それが根源的プリミティヴな感情に基づくものであるという答えを引き出せれば、もはや彼女のスタンスを疑う余地はない。

 だがそれをストレートに訊ねてしまうという行為自体、自分が先輩との関係を単なるオトモダチではなく、更に先まで見据えている事の表明になってしまう。

 だからこそ敢えて「礼儀」という明らかに遠回しな候補をセレクトして迫った。困るってのならそこから友達の話にシフトすればよし。首尾よく先輩の口から「嫌」というワードを引き出せたなら、「安心しました」というあの一言はまぎれもない好意の証明となり、その時はなんの気兼ねもなく悠々と決定打を打ち込める。

 ……という、無駄に策略を織り込んだ戦術はたった一言で返され、あっさりとロープ際に追い込まれる羽目となりました。

 しかもこっちはその友達に興味ないって言っちゃってる手前、逃げ場がない。人が考えた作戦を本人よりうまく使うとか、なにこのひとこわい。


「いや、さ」


 逸らした目で視線を切って、長らく出番のなかった箸で椀の中に残った野菜をかき集め、口に運ぶ。

 『もの食ってるから喋れないだけです』というポーズを取った、幼稚な時間稼ぎ。我ながら情けないまでにじれったいが、確証もないまま決定打を放つには、覚悟も勇気も場数も足りていない。

 だが無情にも3分と経たないうちに、椀もつまみの皿も空になってしまった。


「あー……なんて言えばいいかな。酔ってんな。頭がうまく回らない」

 

 いよいよコーナーポストにまで追い込まれ、立てた拳に額を置いてうなってしまう。早口の独り言に近い弁明に、美恵先輩は空にしたグラスを置いて笑った。


「ごゆっくりどうぞ」


 逃がす気はないということですね、ハイ。

 いっそ勢いのまま打ち込んでも、今までの事を考えれば望む展開に転がってくれる期待値は高い。

 だが万一外してしまえば一巻の終わり。どれだけ前向きに考えても、その心配が尽きることはない。

 というのもこれまでの一連のやり取りは全て、まだ『友達付き合い』として収まるギリギリの範囲で行われていたからだ。

 確かに一志と3人より、こうしてサシで会う回数の方が多い。しかし単なる友人で収まらなくなる不可逆な言動――ぶっちゃけて言えば告白やらセックス――には及んでいないし、互いにそういう素振りすら見せたことはなかった。

 存分に好きなものについて語り合え、退屈な大学での生活に潤いを与えてくれる。今の関係性でその役割は充分に果たされていた。

 ……、うまくいっていたとしたら?

 関係を進めようといざ踏み込んで相手にそのつもりがなかった場合、それは崩壊と喪失に直結する。

 少なくとも俺はそれが怖いから確証無しの一発は打てないし、危険を冒すくらいならいっそ今のままでいいと妥結さえしていた。

 今しがた一瞬で切り返されたように、美恵先輩は俺より遥かに頭が良い。失うリスクが理解できない筈がない。こちとら初めから袖にするつもりはないけど、明確な好意を見せた記憶もない。確証がないのは向こうも同じはずだ。

 ……あるいは美恵先輩の中で、俺など最初っからいつ失ってもいい程度の友人という認識であれば説明がついてしまうが、その可能性はちょっと考えたくない。

 ともあれ、だ。

 俺が顔も名前も知らない相手の事を訊ねただけで見せた、あのあからさまな反応の意図がわからない。

 こんなもん身もふたもない言い方をすれば、単なる惚れた腫れたの駆け引き。それをこうまでややこしくしているのは、そこに別の答えが可能性として用意されているという一点に尽きる。

 

 美恵先輩がである。という事。立派に『困る』理由の正体として成立してしまう。


 だとすればあの言葉も好意の表明じゃなく、俺が興味を抱いてないことに対する安堵以上の何物でもなくなる。残念と言えば残念だが、焦りのあまり関係そのものがご破算になるより何倍もマシ。

 困っているのか、嫌なのか。全てはその確認が先だ。


「……学校外での先輩って、まだ俺達ほとんど知らないなって思って」

「――はい?」


 恐らく先輩は、ここで決定打が来ることを半ば確信していたのだろう。だがその期待は見事に裏切られ、半開きになった口から間抜けな声がテーブルに浮かんで消えた。

 勿体もったい付けた沈黙の果てに、再び始まろうとしているアウトレンジでの様子見。もし観客がいたなら、反則もいとわず一目散に逃げ出した俺の背中へブーイングの嵐を浴びせるに違いない。

 ……本当、格好悪いにも程があるのは分かっている。

 だがこちとら脇役の大ベテランだ。退路もなしに勝負を決めにかかれる程、勇敢なはずないだろう。

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