『FIRST DANCE SCENE(3)』
入るころには目立っていた空席――とはいえ、テーブルが5つもないこじんまりした店だが――も、鍋の中身を半分平らげるころにはすべて埋まっていた。長椅子のカウンターも一人呑みの客がケツを窮屈そうにしている有様。端末マップ頼りに辿り着いた時には単なる一軒家と見まごう店がまえに不安にもなったが、これが隠れた名店という奴なのかもしれない。
「おいっしい……芋と合いますね。もつ鍋」
涼し気な氷の音をバックに、原色の青で彩られた切子細工が閉じ込めた照明の光が躍る。美恵先輩がご満悦といった様子で息を吐きながら、顔の前で空になったグラスを揺らしていた。色彩の
「ホントね。ちょっと今まで食ったのとレベル違うかも」
その雰囲気に当てられないように視線を少し外して返す……というか単にかなり酔いが回ってて焦点が合わないだけなんですけどね。
とはいえ適当な返事というわけじゃない。チェイサーを飲み干して一度口の中をリセットしてから椀を持ち上げると、山盛りに煮られていたニラの香りは口に入る前から食欲を
新鮮なモツはもちろん、そこから出る濃厚な旨味を存分に吸った野菜の甘さはいくら箸を進めても飽きがこない。現状もう結構な満腹ではあるが舌に残るトウガラシのピリッとした辛さがもう一杯を呼び寄せる。
「これでもうちょい塩っ気があれば言うことなしだなあ」
「や、結構濃い味付けに思えますけど?……お酒に合わせる前提だからかな」
美恵先輩の返しを受けて、確認するように燻した茶色をした汁だけをすすってみる。
……まぁ、好みは人それぞれだし、俺の味覚がマイノリティ寄りである事は一志がよくよく指摘してくる。そう思う人の方が大多数なのだろう。
あるいは出汁の深みをより味わうための上品さ、と言い換えてもいいのかもしれない。醬油ベースで作られているらしい、モツの味に負けず、しかし重たさを感じさせないスープ。その完成度は確かにそこらの安居酒屋じゃ味わえない代物だ。
この残り汁だけでも米が何杯でも行けるが、米を食べるならもっと鍋を頼みたいという幸福なジレンマが襲ってくる。ならばと万全の態勢で待ち構えるのは、同じく九州をメッカとする焼酎の豊かなバリエーション。迎え酒だろうとガンガン進むのは仕方のないことだった。
サイドメニューのクオリティにも抜かりはなく、乾杯から自分ではかなりのペースで飲んでいた。
と、思っていたのだが。
「石井君、そろそろグラス空きますね。お代わり呼びましょうか」
「あ、うん、そだね……」
言うが早いか俺のグラスをひょいと取り、自分のものといっしょに通路側のテーブル端に置く。
……いや先輩、今何杯目よ。
彼女の性格なのか等間隔にきちんと並べられているはいるのの、コアタイムのせいか一向に下げに来ないまま列をなす空きグラスを見やる。
「結構呑みましたねえ……お酒なんて久々なんで、少し酔ったかも」
俺の目が口ほどにものを語っていたのか、何かを言う前に美恵先輩が補足を挟む。
――ホントに酔ってんのか?
桜色というにも淡いその頬にちょっと言い訳っぽい口調も相まって、とてもじゃないが信じられない自己申告に思える。
半分、いや3分の2以上は彼女が空けたものだ。始めは二日酔いから立ち直ったばかりのせいでこっちのペースが遅いだけかと思っていたがこの現実を見るにもはやそういうレベルではない。
下手すりゃ一志以上に飲んべえだぞ。
「あー、疑ってます?本当に酔ってますけどー?私」
なおも
……リアクションの端々から滲み出る、この微妙に面倒くさい感。どうやら嘘ではないようだ。
「そういやあ、その……友達とは呑まないの?一緒に住んでる」
これ以上酔った酔わないの話を掘り下げても実りがなさそうなので、話題を変えるついでに気がかりだったことへの切り口を作ってみる。
そう言えばつるんで行動するようになって結構な月日が経つが、同居人の話はほとんど聞かせてくれたことがない。
というよりもそっちの方面に話が及びそうになるたび、それとなくはぐらかされていた気もする。
「……次、何呑もうかなあ?それとも、もうちょっと何か食べます?」
――ちょうど、こんな感じに。
美恵先輩がメニューを開いて、俯きがちにした顔の前に広げる。頭は小刻みに左右へ揺れているが果たしてその目はレパートリーを追っているのか、それとも動揺に泳いでいるのだろうか。
酒とつまみの写真に陽気な文字が躍る
「それなら――」
声と一緒にテーブルから身を乗り出し、メニューの綴じ目を摘まむ。値段の羅列に――あるいはもっと別の事に――気がとられているせいか、美恵先輩は俺の指に気付く様子がない。
「あっ」
そのままひょいっと取り上げると、そこで初めて小さく声を上げ、慌てて伏せがちな目を横に流して口元を隠す。
「なんですか、いきなり」
「いや、メニュー独占されてちゃ決めらんないべさ」
抗弁を受け流して横開きにしたメニューをテーブルに置く。
90度傾いた文字は読みづらいが、これなら2人一緒に眺める事が出来る――っていう正論を
「名前面白くない?この焼酎。俺これにするけど、先輩は?」
「……おんなじのでいいです」
ぶっきらぼうに答えるなりさっさと店員を呼びつけた美恵先輩は、事務的な口調で俺が一言も挟む余地なく注文を済ませる。
店員の足音が去ってからしばらく、俺達の間には減り始めたスープを沸かし続ける鍋だけが音を生んでいた。
「……他の女の子の事を知りたがるのは、失礼じゃないですか?」
21時を過ぎても一向に席は空かない。そのせいで遅れるサーブにしびれを切らしたのか、それとも俺より先に沈黙に耐えかねか、美恵先輩は目線を壁へ外したまま、不意にぽつりと呟く。
「へ」
「せっかく2人で呑んでるのに」
――あれ?それで怒ってたんスか?
と、思わず口から出そうになった。そいつは全くの誤解だ。とはいえ返事の間を下手に置けば、余計に考えをこじらせられかねない。
「別にその子に興味があるってわけじゃないよ」
即座の返しを受けて、美恵先輩はどこかほっとした様子で寄せた眉根を戻す。
「ふーん……」
少しだけ間を開けて、同時に鼻で鳴らした息が重なった。
その表情の変わりようを最大限都合よく解釈するとしたら、それは彼女の抱いた嫉妬が杞憂に終わったから……ということになる。
それが100%ありえない話とも、単なる自惚れとも思わない。だがその反応に見え隠れする釈然としない何かのせいで、どうにも素直に喜ぶ気分になれなかった。
いや少なくとも、嫌う異性と2人でたびたび会うことはないし、こうして鍋も囲まないだろう。しかも自分から誘ってきて、あまつさえおごりと宣言してだ。これを何らかのサインと受け取れないならば、一志曰くの『無自覚系』という誹りも甘んじて受よう。なんかの病気だよそれはもう。
俺が言いたいのはそういうことじゃあないんだ。
「安心しました」
美恵先輩は小さく呟き、チェイサーを飲み干す。
その声色は確かに安堵を表している。こちらに向ける目元も細い。だがグラスの淵から覗く口の端からは、いつのまにか笑みが消えていた。それどころかこれまでで一番明らかなモーションを掛けたことによる、照れのかけらすら窺えない。
その表情と言動そのもの、ふたつのミスマッチが確信を運んでくる。
感じ取っていたのは彼女の明らかな好意――だけではなく、それ以上に大きな不自然さだった。
上手だと思っていた美恵先輩の距離の詰め方。それが今この瞬間にいたってはどうにもらしくない。
見ぬふりのできないレベルの不可解さと言い換えてもいいその存在が、同時に彼女の言う『安心』が単なる仕掛けた駆け引きの成功を意味するだけのものではない事を指し示す。
俺は今、自分で思っているより遥かに重大な何かに手を掛けてるんじゃないか?
ふとよぎったこんな妄想も、おそらく酒が悪い方に回ったせいだろう。
あるいは必死にそう思い込んだせいかもしれない。ぐるぐる回る頭の中、言いしれないそんな予感を好奇心が上回るまで、そう時間はかからなかった。
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