『鼓動は消えて何に変わる?』

 こつ、こつ。

 一歩歩くたび、右手に下げた俺と一志のメットがぶつかって音を立てる。正門に繋がる橋の脇を抜け、木漏れ日に照らされるベニヤ造りの階段を下りていくにつれ、その音はメトロノームの重りをゆっくりと下げるように間隔を短くしていった。


「あの、すみません……もう少しペース落としていただけると」


 最後の段を踏み、靴底から伝わる感触が落ち葉と土からアスファルトに変わったところで、後ろから小さな悲鳴のが聞こえた。ついで思ったよりも遠くから遠慮がちな声が耳に届く。


「あ、ゴメン」


 どうやら知らず知らずのうちに、歩くペースを速めてしまっていたらしい。つまづいた三吾さんに指摘されるまで気づけなかった。

 謝りながら振り返ると、彼女は未だ中腹あたりを一歩一歩、難儀しながら下っている。もとよりライダーや自転車通学の学生以外は使う道理のない道。いくら踵が低くてもパンプスを履いた女の子には厳しいものだったようだ。

 他の誰かをエスコートした経験でもあれば事前に気付けたかもしれないが、あいにくと俺はこの大学でそんな甘酸っぱい思い出を作れるほど充実しちゃいない。

 その事実はこれまでも、これからも変わらない。

 と思っていたんだけどねぇ。


「停めてる場所的に、ここくぐった方が近いんだけど――」


 まぁ、今更ジャンケン運の悪さとチキンっぷりを発揮した一志を恨んでも仕方ない。三吾さんが階段を下り終えるまで待ってから、破れたフェンスに手を添える。

 少しの間をおいた後、どうにか転ばずに追い付いた彼女は俺の手と、数メートル先に見える正門を見比べた。

 さすがに二の轍は踏むまい。 


「今日は回り込みますかね」

「いえ、大丈夫です。時間も惜しいですし」


 反省を生かして気を配ってみたものの、今度は彼女の方から拒否されてしまったもんだから、やっぱりいまいち格好がつかない。


「あ、そう……」


 そのおかげで、むしろ気を遣われている感じすら覚えながらフェンスを潜る羽目になった。


「服、引っ掛けないようにね。なんか高そうだし」

 

 振り返り、バツの悪さを覚えながらおざなりなフォローを続ける俺に、三吾さんは軽く笑いを返してくる。


「……何?」

「いいえ、ありがとうございます」


 口元に曲げた人差し指を当て、口元を隠しながら目を細める。

 破れた網目の向こうからという凝った構図。さしずめフェンスの枠がフィルムのひとコマ。その画角に適度な空白を残して収まる彼女の姿は、まるで映画のワンカットを決める女優のように映った。

 美醜でものを図るつもりはないが、その存在が他の女の子と同じ、地続きであることがちょっと信じられない。それほどまでに現実感すら危ぶまれるような表情ひとつで画面の力を最大限に引き上げる彼女に、かがんだままの腰を伸ばすことも忘れて思わず見惚れる。


「よいしょ、っと……」


 そんな彼女が、ゆっくりとスクリーンを乗り越えてこちらに来る。その事実に妙な高揚を覚えつつ、その動きを見守っていると――


「ひゃっ!」


 ……向こうに残した後ろ脚のパンプスのつま先をひっかけ、盛大につんのめった。


「ちょっ」

「だ、大丈夫、です」


 思わず一歩近づく俺を、三吾さんは小刻みに震える片手をあげて制止を掛ける。

 急速に泥臭い現実味を取り戻した光景の真ん中で、わずかな間前足だけで踏ん張る彼女。しかし抵抗もむなしく、その姿勢はだんだんと崩れていく。

 その顔にやがて悲壮感たっぷりの諦めの色が走った時、先程とは別の意味で目の前がスローモーになった。

 アカン。あれは顔から行くぞ。

 それも舗装の荒いアスファルトに。

 

「っと……!」

 

 そう思った時には、頭より先に体が動いていた。

 鞄を放り、地面と彼女の間に空いた左腕を滑り込ませ……ああいかん、思ったより勢いがある。腕だけじゃ無理。

 となれば。


「怪我、ない?」


 落としたメットが、地面にぶつかって硬質な音を立てる。それとほぼ同時に、俺の体は彼女のほぼ全体重を受け止めていた。

 声の震えを隠しながら問いかけるも、俺のみぞおちに密着した鼻をふぎゅ、と鳴らしたきり、彼女は返事を返してこない。

 その後ろ足は未だにフェンスの向こうで爪先立ち。なので迂闊に体を離すことも叶わない。傍から見れば恐ろしく不格好な抱擁の体制のまま、俺と三吾さんの間には沈黙が流れていた。

 段々と、体に小刻みな震えが伝わってくる……これはあれか。嫌悪によるものか。

 だとすると後々事案で訴えられる奴ですか。

 違います、これはあくまで安全確保を最優先した結果です。

 巻いた両腕で彼女の顔を腰の上あたりに収めてしまったのも、不可抗力以外の何物でもないのです。

 そこに下心は一切ありません。

 セーフです。

 思考は勝手に、そして一体誰に対するものなのかもわからない弁解を延々と並べてていく。

 いや、誰だってこの歳で前科者にはなりたかない――


「もう、大丈夫ですので……」


 頭の中が妙に加速していたおかげで、どれだけ時間が経ったのかもわからない。

 遠くで鳴る蝉時雨に消え入りそうなほど小さな声を耳が拾うと同時に、フェンスから足を引き抜いた彼女がゆっくりと俺からその身を剥がしていく。


「いや、こっちこそ、ごめん。嫌だったよねぇ……」


 自分でもちょっと引くぐらいしどろもどろな口調の謝罪にも、三吾さんは目どころか顔全体を背けたまま。

 終わった。

 さらばクリーンな経歴。こんにちは裁判所。よろしく示談金。

 全力で後ろ向きな覚悟を終え、次に襲い来るであろう罵詈雑言に備えて身を縮こまらせる。

 しかし。


「いえ、嫌だったわけでは、ないです、けど……」


 そんな俺に聞こえてきたのは、意外にも過ぎるそんな一言だった。


「へっ?」


 間抜けに訊ね返す俺のほうを向く三吾さんの耳は、端まで真っ赤になっている。それを目にした途端にこちらの顔まで熱くなり、額から汗が噴き出す。

 それは――おそらく勘違いであるとわかっているものの――ある種の予感が俺の体温を数度、一気に上げたことによるものだった。


「あまり、慣れていないもので……ご迷惑を、おかけしました」

「いや、全然迷惑ってこたないけどさ……」


 こちらに向き直りはしたものの、三吾さんは視線をあちこちに彷徨わせ、けっして目を合わそうとしてこない。


「なら……よかったです……」


 蚊の鳴くような音量で聞こえてきた彼女の追撃に、さらに頭がこんがらがっていく。

 嫌じゃない。

 ならなんなのか。

 なにが良かったのか。

 嗜虐趣味があるわけじゃない。しかし未だテンパる様子の彼女にそう問い詰めたい気持ちは、自分でも驚くほどに強かった。

 だがそれを今口にしてしまうのはさすがに自惚れが過ぎるし、空気が読めないにもほどがあるだろう。それくらいの弁えはある。

 ……かといって、この空気をどうすればいいのかは分からないけど。

 再び流れる気まずい沈黙。それを埋めるように風が木々を揺らし、その拍子に転がった俺のメットが彼女のパンプスに触れる。


「本当に大丈夫ですから。ね?」


 それにタイミングを得たりとばかりに、三吾さんは急に顔と声のトーンを上げ、メットを拾い上げてこちらに差し出してきた。

 同時に引っ掛けた足を前に出しての、怪我してませんアピール付き。真意はどうあれ、この状況をいかんともしがたいと思っているのは、彼女も一緒、か。

 俺もそれに倣い、一志のメットを拾い上げる。


「急ごうか」

「はい」


 僅かばかりの未練を覚えつつ、わざと明るい口調で言う俺に、彼女も元気よく首肯を返してきた。

 そうして互いにを終えて歩き出しはしたものの、その距離は微妙に離れ、足取りもやはりどことなくぎこちない。

 気分を切り替えきれていないのが丸わかり……こりゃ、運転にも相当気を遣わなければならなさそうだ。

 時々ちらりと振り返る俺に、三吾さんは少し無理のある笑顔を返してくる……もしかしたら単に2人乗り2ケツの経験がないだけかもしれないが、どちらにしろあの様子では、この後の展開まで考えが巡っていないのは明白だった。

 目的地がここからどれだけ離れているかはわからないが、さっきみたいな一瞬ではなく、乗っている間中ずっと体を密着させなければならないんだけど、本当に大丈夫なんだろうか。

 せっかくの棚上げが無駄にならない事、そして何より妙に意識した挙句バランス崩して事故らないことを祈りながら、俺はキーシリンダーにカギを差し込んだ。

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