『揺れる球体(2)』

「いや、さっきっからなーんか棘があるっつぅか……ちょいちょいディスられてるっていうかさあ」


 もたついた言葉尻に口の端を噛む。

 用意していたのはもっとストレートに不満をぶつけるような容赦のないえぐり文句だったはずだ。しかしいざ息を吸い込んだ途端心の勢いがしぼみ、結果口から出たのはそんな曖昧な指摘に留まる。

 ……いや、無理もないだろ。

 断じて萎縮したわけではない。

 ここまであれこれ話したとは言え、未だ素性もよくわからない相手と事を構えようとすりゃ、誰だってこうなる……よね?

 付け加えればあくまで同世代の女の子相手ということが、無意識に手心を加えてしまったのかもしれない。しかしやはりというべきか、そんななまくらな言葉では彼女の内側に切り込みを入れることすら叶わなかったようだ。

 三吾さんはわずかに視線を逸らすが、その顔には俺の怒りを買ってしまったという自省も見えなければ、言われのない憤懣ふんまんを叩きつけられたという自覚すら伺えない。

 相変わらず困ったように濁った笑い。遠ーい記憶に似たものが引っかかる。保育園の先生とかが駄々をこねるクソガキを見る時特有の顔だ。

 ご機嫌斜めな理由に皆目見当がつかず、とはいえ無視もできないシャウトっぷりに小首を傾げて頬に掌を当てる仕草を添えるような、アレ。

 切り出し方を早くも後悔する。

 やっぱりガツンと言ってやればよかった。


「そんなつもりは、なかったんですが……この頃は同じ世代の人と話す機会に乏しかったので、そのせい、かも、しれないです?」


 ……いやそんな浅い理由じゃねえだろ。ていうかなんで最後語尾上げてんのよ。

 噛み殺した舌打ちが顔を歪ませる。そんなん改めて問うまでもない。要するに彼女は口にこそしたものの、そこに自分の非があなんて欠片も思っちゃいないってことだ。

 つまり『当方に思い当たる箇所はございませんが、こちらの理由でしたらお気に召しますか?』と慇懃無礼にお伺いを立てられた。


 ――もういいか。

 積み重なったストレスは、どこまでもネガティヴな思考を加速させる。そして往々にしてそれ以外はだと早合点させるものだ。分析を終えた瞬間自分の中で閾値いきちを超え、気づけば机の端を2度、指の先を揃えて強く叩いていた。

 卓に呼び鈴コールベルがないときにウェイターを呼びつける、わりと無礼なやり方。昔爺ちゃんか婆ちゃんかが、酒のリザーブが遅いとよくこうして店員に説教を垂れていた。

 現在でもその効果は覿面で、相変わらず談笑に耽っていたマスターが一瞬でこちらを向き、珈琲を運んできた時より更に背筋を伸ばして歩いてきた。


「申し訳ございません。何か不備がお有りでしょうか?」


 で、いざ面と向かって畏まられると少し気の毒に感じてしまう。

 さっきと同じじゃねえか。自分の小市民っぷりが恨めしかった。

 いや、決してお店やマスターが悪いんじゃないんだ。自分の不機嫌を伝える演出に使ってしまったことに申し訳無さを覚える。


「……灰皿っていただけます?さっき下げられちゃったみたいなんで」


 『あっ』とか『えっと』とかは駄目だ。迫力が失せる。

 気弱さを感じさせる接頭語を必死に喉奥に押し込みながら、できる限り無愛想に言い放つ。


「大変失礼いたしました――」


 頭を下げながらも、マスターはちらりと三吾さんを見やった。

 彼がこの卓の灰皿を下げたのは、最初のオーダーを確認し終えた時だ。懐からタバコを出さない俺と、淡い服を着た三吾さんを見てのことだろう。さりげない気遣いというやつだ。

 ちらりと彼女を伺う横目は、言下に『本当にいいのですか?』と問いかけたのだろう。テーブルを包む不穏さを察してのことかもしれない。


「あと」


 わずかに声量を上げて、何かを言いかけた三吾さんと聞き逃すまいとするマスターを制する。

 すべて無下にしてごめんなさい。そのかわり――


「おかわりいただけます?さっきと同じやつでいいんで」

「えっ、あの――」

「よろしくお願いします」


 有無を言わせず彼女の方へと置かれていた伝票をひったくり、マスターへと手渡す。奢りから一転、約4,000円の出費は痛いが必要経費なら仕方ない。この店への迷惑料込みだ。激しい言い争いに発展しないとも限らないし。

 ともあれ、これだけやれば流石にこちらの臨戦態勢は伝わったようで、僅かな逡巡を残して灰皿を置いたマスターが去ったあとには、彼女の表情にもしっかり険が混じっていた。


「お礼、って言いませんでしたっけ?こちらで持つつもりだったのですが」

「勝手におかわり頼んじゃったし、もうおごられる理由ももないんで」

「どういうことですか?」


 問を返すかの彼女にふんと鼻を鳴らし、端に加えた煙草に火を点ける。これは彼女に与えた最後のシンキングタイム。的はずれな答えが返ってきたならば、もはや遠慮はしない。

 一層顔を険しくしたのも見逃さなかったが、流石に顔に浴びせるのはやめておき、しばらく窓に向かって紫煙をくゆらせる。


「……指摘が気に障ったなら謝ります。ですが後になってもっと大勢の前で恥を掻くよりは――」


 流れ的にも俺がそこに腹を立てたって思うのは無理のないことだ。

 が、残念ながら本質は見逃している。

 まぁわかっちゃいたけどさ。すぐに答えにたどり着く程根が深くなければ、こんな空気になる前に事態は収まっている筈だし。


「アンタに未来まで心配される筋合いないですから。つーか指摘そのものじゃなくて、言い方の問題っしょ」


 それまで砕けていた口調を敬語に変え、改めて関係の一線を引き直す。

 態度を変えられたことを感じ取ったのか、三吾さんはまたも言質を取るようなゆっくりとした口調で返してきた。


「そう言われましても……訂正のエビデンスならお見せしましたよね?」


 あくまで怒るつもりはないらしい。

 争いは同じレベルの生物でしか云々ってやつか。

 俺自身、きっかけ彼女のことを重箱の隅知識でマウント取りたがる、所謂『面倒くせえタイプ』の古参であると位置づけ、呆れた所から始まっていたが……問題はファンとしてのあり方なんて単純なものではなく、もっと深くにある。これで確信が持てた。


「そういうところなんスけどね。俺が言いたいのは」


 口を動かしながら、改めてここまでの話題を振り返ると、その端々に片鱗が覗いていたことに気づく。

 例えば、俺も三吾さんも目的があって経営学部に入ったわけではないという共通項に気づいた時。


『たまに不安になるけどね。こんな動機で入ったけど就職大丈夫かなって』

『不安に思っているだけまだマシでは?経営学概論、生徒の話し声で教授の声が聞こえないじゃないですか』

?』

『ああ、いえ。この大学に籍を置けたというだけで安心しているのを見ると、可哀相だなって。それだけで全員が必ず優秀な経営者やコンサルタントになれるはずがないのに……動機が不安定な人より成績の悪い人が存在する事こそ、いい証拠ですよ』


 あの時はコーヒーの美味しさに舌鼓を打ちながら聞き流していたので、真面目に講義を受けている者の辟易かと同情を浮かべるだけだった。

 だが噛み砕いてみればその言葉たちは自分を棚に上げるどころか、遥か高みからの物言い過ぎる。俺にはそんな理由で他の学生を哀れむ発想すらなかった。

 更にもうひとつ。互いに実家を離れる決め手となっていた、家族との不和に話が及んだ時もそうだ。


『1人暮らし、家事は大変だけどやっぱ気楽よね。余計な喧嘩しなくて済むし』

『全くですよ。それに離れて見ると改めて色々見えてきたものもあります。向こうもそうだといいんですけど』

『それがいい方向に働くかどうかはわかんないけどねぇ』

『……いえ。私が卒業して成すことを成せば、きっと考えを改めてくれると思うんですけどね。って』


 これも一度聴いただけでは、初めて親の庇護を離れた年頃の女の子特有のイキりに思えたが、実際はもっととんでもないことを口にしている。

 母さん父さん、どちらに対してもそうだが、俺は彼らを多少違う空間で時を過ごした程度で価値観の歩み寄りや融和が出来る存在だなんて思っちゃいない。

 諦めと言えばそれまでで、当然といえば当然だが、ふたりは俺より数十年人生を長く生きている者、紛れもない『大人』なのだ。16になった和也だって、少なくとも世の中を全く知らない『子供』からは抜け出し始めている。

 子供と大人、頭の中の線引きは法律に依るものじゃない。そこに宿る考え方や生き方が、周りの力でぐにぐにと形を変える熱鉄の時期をとうに過ぎ、すっかり冷えて己の形を定めた鋼である否かだ。

 そこを認めるからこそ俺は諦めたし諦められた。同時にいくら疎もうが、両親も弟も独り立ちしている存在としてある種の尊重はしている。

 ……だが、それを彼女は――何を成そうとしているのかは語ってくれずじまいだったが――屈服させるとのたまったのだ。

 正しかった、という過去形が意味するところは、三吾さんは最初から自分の方にこそ正当性が備わっているという揺るぎない確信を持って、相手の考え方をひん曲げてやるという意思を意味する。

 それも、実の父親に。


 それらが何を意味するのか、今に時間を戻せば一目瞭然。

 要するに彼女は俺を、そして恐らく今まで対峙してきたすべての人を対等に喧嘩する相手とすら見なしていない、ってことだ。

 だからこそ言い聞かせ、自分ではなく相手に反省や変化を促す物言いをする。

 それこそ『子供』に言い聞かせるがごとく。

 そいつは導き手を待っているような奴には刺さるスタンスかもしれないが、俺にとっては生き方の相性が悪すぎる。

 講堂で覚えたあの直感は間違っていなかった。俺はテメエが導くべき市井しせいでもなければ、命令を待つ家臣でもない。

  

「気づいてないみたいだから言いますけど、アンタ人を下に見すぎ」


 んで、それを一言に纏めるとこうなる。

 そっから延々と説明してやってもよかったが、それでは同じ穴のムジナだ。彼女のような人間の生き方を変えられるなんて奢りはないし、つうかそんな面倒くさいこと頼まれたってやりたくない。の資格はないが、かといって友達ですらねえんだから。

 さておき鋭く突き入れた言葉の後には、しばらく水を打ったような静寂が続いた。その合間におかわりを持って来たマスターも、場の空気を察していち早く撤退していく。

 それを横目で見送りながら3本目を灰皿に押し付けて視線を前に戻すと、裸の女王様は意外な表情を浮かべていた。

 てっきり怒りに戦慄わななくか、あるいは泣きでも入るかと思っていたその瞳は、そこに有り得ないものを目にしたかのように瞳孔が広がりきっている。


「そんな事、初めて言われました……」

「そりゃ光栄ですわ。よほどしかいなかったんスかね」


 散々当て擦られた無意識のマウントへ皮肉を放ちつつ、テーブルの脇に除けていた財布やライターをポケットに突っ込んでいく。


「……逆ですよ」

「どーでもいいです」


 携帯端末に手を伸ばしかけた時に聞こえてきたそんな呟きにも、適当に返しておくに留める。声は小さくとも震えも掠れもしていなかったのが不思議に思えたが、その心にどんな波紋を広げたかなんて興味はない。

 今後会うこともないだろうし。


「ともかくご教導は沢山なんで。それと、みんながみんなアンタにかしずくなんて思わないほうがいいっすよ」


 だから、このままシカトのし通しでもよかったが――

 鞄を肩にかけて椅子を引きながら、最後の一矢だけを報いてやる。


「……同じ」

「は?意味わかんねーんですけど」


 少しは溜飲が下がった。

 今度こそ王への反逆を終えて席を立つ俺を見上げる瞳は潤み、ゆらゆらと移ろっていた。その水面の中央に俺を収めて放った呟きにも一切の情けもかけないまま、伝票を片手に立ち上がる。


 ――今度こそさらば、同好の士。あるいは日々の彩りとなるかもしれなかった存在よ。 

 あと一志ゴメン。お前のフラグとやらも一緒にへし折ったったわ。

 背を向ける俺にも構わず、ただ呆けたような様子で椅子に座ったままの彼女を一瞥することもなく、早足でレジへと向かった。

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