『揺れる球体(1)』
重く、それでいてどこか間の抜けた音が3つ響き、余韻をサーキュレーターの羽が掻き回す。
壁に備え付けられた古めかしい柱時計の鐘。俺たちのすぐ側にあるはずなのに、やたらと遠くから聞こえたような錯覚を覚えた。
「……」
「……」
それはとりもなおさず、10分ほど前からこのテーブルを包む重苦しい沈黙のせいだろう。この空気に耐えかねて覗いた端末と、今しがた響いた鐘のおかげで正確に経過した時間を割り出せたが、体感的にはその数倍は長かった。
……重さを増した空気の中では時間の進みが遅くなるとかなんとか。
正確には重力だっけ。そっちのほうがしっくり来るな。肩になんかのしかかってる感じがするもの。今。
やっとこ3時。
惨事。ね。
「……なにか、おかしかったですか?私」
頭に浮かんだそんなジョークが、知らない間に口元を苦笑に歪ませていたようだ。
それを見逃さなかった――というより見咎めたといったほうがいいかもしれない――三吾さん。その口調は明らかに機嫌を損ねた俺への戸惑いが6分と、急に変わった態度への怒りが4分といったところ。
「いーや、
あえて視線を合わさず返す。
外したその先には空となり、氷も半分方溶けてしまったグラスがその根本に水環を作り、テーブルクロスに倍の大きさの染みを広げていた。
水の入っていたグラスだってとっくに空。段々と積算されていった苛立ちのせいか喉からは潤いが抜けきっており、なおも水分を欲している。
だがお礼に連れてきたと宣言されてしまった手前、おいそれと追加のオーダーをするのも気が引けた……というより、それが新たな不興の種となりかねない。
かと言って『もう出ようか』などと口走れば面目まで潰してしまう。
右に背けた顔で横目にちらとマスターの様子を伺うも、今は常連と思しき中年のリーマンによる長話につきあわされていて、しばらくこっちを見る余裕すらなさそうだった。
ありゃだめだ。ナイスミドルの助け舟どころかおかわりの水も期待できそうにない。そう悟った瞬間口の端からため息が漏れ、それに釣られたように彼女も長く息を吐く。その息遣いを向けた左耳が捉えていた。
……どーしてこうなっちまったかなあ。
まさかあれから1時間も経たずして、互いに名前を知らなかったときより険悪になるとは。
だが、何も始めっから空気が冷え込みっぱなしだったわけではない。遅蒔きながらすぎる自己紹介を終えた後、しばらくの間は話に花を咲かせられていた。
改めてのお礼にそこそこに始まったアルレディトークにおいて俺や一志よりもdファン歴が長く、ほぼ活動初期からのツワモノであるとか。
しかし自分において
そんなファントークが一段落すれば、経営学部には自分の希望で入ったわけではないとか。
実は彼女も大学に入る直前から親元を離れていて、親子関係も一言で良好とは言えないらしいとか。
なんだ結構似たところもあるじゃん……と思えば、2年の今からすでにインターンシップのような形でとある会社で働いているだとか。
住んでいる場所や働いている所の詳細は濁していたのも、知り合って間もない事を考えれば別に不思議でもない。むしろ箱入りに見えてちゃんと世間を見ている事に、自分の今を棚に上げて感心すら持てた。
まぁともかく、合間に口にするコーヒーが今まで飲んだこともないレベルで美味かったのも手伝って、俺の方もいつも以上によく口が回っていた。
時計の針の進みも早かった。
楽しんでいた。それは間違いない。
雲行きが怪しくなったのは、話題が一巡して再びアルレディの話に戻った時だった。
「ボーカル変わっても全然ありって言ったけどさ。やっぱ前の……」
それまで自分でも驚くほどに饒舌だった口が、初めてわずかに詰まる。
以前のヴォーカルの名前が喉から出てこない。いかん、ど忘れってやつだ。
「……香椎さんの声もいいよね。今聴いても――」
「椎野さん、ですね」
必死に記憶の糸を辿ってやっと出た続きを言い終える前に、即座に訂正が突っ込まれた。
突然の出来事に半ば呆然とする俺を見るその笑顔こそ変わらないものの、差し込んできたその言葉と同様に、細めた目の奥が鋭さを増している。
いつぞやの講堂で向けられた時と同質の寒気を覚え、思わず椅子に背中が張り付いた。
「あ、あぁ、そうだった……でもすごい判断だよなぁ。フェスに引っ張りだこってなったタイミングで脱退とか」
「確かに……でもその判断を尊重した3人もすごいですよね。私ならどうしたって引き止めちゃうな」
気圧された俺がなんとか話題を引き戻す頃には、三吾さんの瞳はすっかりもとの丸みを取り戻し、穏やかにカップを傾けていた。
……単なる見間違い、か?
そう判断するのも無理のないほど、それは一瞬の出来事だった。
――しかし。
「ヴォーカルってバンドのイメージそのものと言えますし、成功する見込みだって明らかになっていたのに……」
「まぁ、それほど本人にとって薬剤師って夢だった――」
「建築士、ですね。
再びのカットイン。今度は潜めた眉根のおまけ付き。
その訝しげな表情はまるで、本当に俺が自分とほぼ同じレベルの古参であるかを疑っているようだった。
「そう、だっけ?ウィキには薬剤師って書いてあったと思うんだけど」
だが今度は俺も食い下がる。
その裏付けは『あったと思う』なんて曖昧さじゃない。何しろ昨日の夜たまたま暇つぶしにアルレディのページを眺めていたんだから。横でうざったく主張していた広告バナーだって鮮明に思い返せる。
確信を持って静かに息巻く俺だったが、彼女は鼻で小さくため息を一つ吐き、噛んで含めるような口調で返しの刃を向けてきた。
「単なる編集者の
――古参気取りの割に、知識の根拠はそんな所?
そんな副音声が聞こえた気がした。
単なる被害妄想だということはわかっている。現に彼女は無知を晒した俺に対して怒りや呆れではなく、あくまで嗜めるような雰囲気と棘のない言葉遣いで間違いを正してきた。
だが、まるで幼児に言い聞かせるようなその言い方をされれば、誰だってお世辞にもあまりいい気分にはならないだろう。
無意識に噛み跡のついたストローを強く吸ってしまう。アイスコーヒーの残滓に空気の混じるずここ、という音が響いた。
「『NOTES』の4月号読んでいれば間違えないと思うんですけど」
そんな俺を意に介さず、三吾さんは言うが早いか鞄からタブレット端末を取り出してテーブルに置き、天井の光を反射しないガラス面の上にその白く細い人差し指を踊らせ始める。
慣れた手付きで素早く開いた電子書籍のブックスタンドから一冊を音楽雑誌を選び、数度ページを繰ってインタビューの記事を拡大させて、手首以外の動きを止める。
最後に短く切られ、薄い光沢を放つ人差し指の爪がとん、と指し示したその一説には、現ヴォーカルが椎野脱退の真相を語っていた。
自分たちにとっては音楽を創ることが、彼にとっては建物を創ることが望む道であった。
――自らの夢、あるいは目標に巻き込むことで、誰かのそれを押し潰すのは本意ではない。
彼の告白はそう結ばれている。
「本当だ……」
「ね?」
頭の上から聞こえてきた声に画面を覗きんでいた顔を上げると、三吾さんは俺と鼻先が触れ合いそうな距離で笑った。
難癖のひとつもつけようのない顔の造作と、それだけで画として成り立ってしまうような佇まいは、近くで見てもその輝度を失うことはない。
それを取り立ててなんの特長もない俺が一身に受けているのだ。傍から見ればいかにもめくるめく青春が始まるシチュエーションなのだろう。
……が、それには前に続いていたもの不穏に過ぎた。
「あぅ、すみません。近かったですよね……まぁ、これ読まなくても脱退直後のライブのMC覚えていれば、間違えようもないですけど」
そして照れくさそうにしながらもこのダメ押しである。
切り出す決心がついた俺はゆっくりと顔を離して背もたれによりかかり、目をそらしながら毛先をいじる彼女に向かって静かに口を開く。
「てぇかさ……なんか、まずいこと言った?俺」
訊ねながら置くグラスの氷が、からんと音を立てた。
まるでいろいろ段階すっ飛ばして倦怠期になったカップルのような問いかけをしたことに、気恥ずかしさで後頭を描いてしまう。
三吾さんにとってこの返しは全く想定外だったのだろう。驚いて手を止めた彼女は質問の意味がわからないとばかりにキョトンとした顔で小首を傾げていた。
「えっ?どうしてですか?」
自覚なし、か。
こいつは難敵だぞ……。
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