『C.D.M』
梁と梁の間から伸び、鈍い光沢を放ちながら大仰に回るサーキュレーターを眺めながらコップの氷を噛み砕く。オーダーした……というか、勝手にされたなんちゃらとかいうコーヒーはまだ来ない。店内にゆったりとしたリズムで流れるピアノの旋律が、余計に時間の流れを遅く感じさせた。モノトーンで統一された店内の雰囲気は落ち着きを演出するための者だろうが、今の俺にはかえって落ち着かない。
別に始めてくる店のインテリアとか、天井から生える見慣れない扇風機の化け物とかに興味がある訳ではない。だというのに顎をしゃくり気味に上げ続けるのは単に、ずっと正面を向いているより幾分か落ち着くからだ。
大して親しくもない子とずっと目を合わせていられるほど、俺は異性と慣れ親しむ半生を送っちゃいなかった。
「あの、気に入りませんでした?」
……とはいえ、改めて声を掛けられれば視線を合わせるよりほかはない。
見れば彼女は頬の汗を拭いていたハンカチを丁寧に畳んで、少し戸惑いがちにこちらの顔を伺っていた。
「いや……気に入るとか以前に、あんま慣れてなくて。こういう雰囲気のとこ」
浮かべた愛想笑いと同様の曖昧な返事に、彼女は首を傾げる。
「普通の喫茶店だと思うんですけど……」
……普通の喫茶店って、コーヒー一杯にお札を出さなきゃならんのですか。
こんなことになるなら、強引にでも学食連れ込めばよかった。思わずジーンズの尻ポケットに突っ込んである財布を触ってしまう。まだ札は入ってたはずだけど、どうにも不安が
喫煙所で声を掛けられた後、外で長々喋るのも何だからと移動を提案した……までは良かった。この暑さでは自販機に何枚小銭を飲み込まれるかわかったもんじゃない。それ以前に日差しといい外の気温といい、どう考えても長話に適した環境ではなかった。途中でぶっ倒れられでもしてみろ、どこの誰に連絡とっていいかもわからないんだから。
今思い返しても、我ながら理屈として筋は通っている。
「はー……涼しい、やっと落ち着けましたね」
「まぁ、うん、そうねぇ」
生返事を返しながら脇目に伺う彼女は、まとわりつく熱気と湿気から解放されてほっと息を吐いている。細く伸びる生っ白い腕の通り、やはり暑さには強くないご様子……だったらなんでこんな所まで。駅からも結構歩いたぞ。
近場でいいと言う俺の提案に、彼女は何故か難色を示した。というよりあの時は、学食やら学校の近間にあるファミレスという選択肢を殊更に嫌ったように見えた。
その柔らかい物腰は崩さず、しかし決して意見を曲げない彼女によって押し問答は延々平行線。結局俺が折れる形で、このこじゃれた佇まいの喫茶店に腰を下ろすことになった。
後でバイク取りに戻んないと……面倒くさい。
「よく来るの?ここ」
――随分お高い相場ですけど。という続きは喉の奥に仕舞い込み、動揺を気取られないようにさり気なく訊いてみた。つもりだった。
「いえ、ここへは初めてですね」
しかし、すぐに返された否定に、装ったポーカーフェイスはあっさり崩れてしまう。
「なら――」
どこでも良かったやんけ。
と続けようとした俺を制するように、彼女は続きを口にする。
「でも、折角お礼をするのに学食とか、チェーンのコーヒースタンドはちょっと。こういうところなら、落ち着いて話せますし」
その言葉には実感が籠もっていた。
単にお礼だからと慣れない背伸びしてみた……という訳でもないらしい。
ついでにこのやりとりでこっちの懐事情とか、あるいは価値観まで読み取られた心地がして、気恥ずかしさに後ろ頭を掻いてしまう。
「あっ、すみません……決して悪いという意味ではなくて、その」
そんな俺を見て彼女は少し俯いてしまった。またしても不興を買ったと勘違いしているんだろうか。
「いいって。こんなとこ来る事滅多にないし、貴重な機会ですわ」
精一杯作り笑顔で返すが、彼女はうっと言葉を詰まらせ、一向に返事を返してこない……まさか今の返しも皮肉と取られたか?
ああ、気まずい。そもそも俺が一志と駄弁る時なんぞ大抵がドリンクバー付きのファミレスだ。ツーリングの途中とか、給料日の後とかはたまにコーヒースタンド――たった今若干こき下ろされたけど――に寄る事もあるが、どこも500円でお釣りが来る。
いかに友達が少ないとて、この感覚が大学生という身分において少数派だとは思わない。聴いた事も無い豆の名前が並ぶメニューとその横にある数字を見た時、正直何かの冗談かと思ったぞ。
やはり彼女は纏う雰囲気通り、どこぞの箱入り。
そらこんなボンクラとはテンションも合わんわな。
「いや、ホント暑いよね。日に日にキツくなってくようなさ」
「最高気温は昨日より2度低いですけど」
「あ、そう……」
特段舞台装置もない場を改めて設けられると、その差が浮き彫りになってコミュニケーションを滞らせる。
「……あっ、前期試験、どうでした?経営組織論、意外と易しくて助かりましたよね」
「俺、ほっとんど白紙」
「そう……ですか」
どちらかが口を開く度、いたたまれなさが加速する。いくらなんでも俺ここまでコミュ障だったっけ……?
新手の拷問かと思う、打てども響かない言葉のやり取り。何かを見落としているような不足感を抱えたままどうにか2、3度往復させたのち、とうとうテーブルは完全に静まり返ってしまった。
具体的にはドリッパーに入った豆の開く音までしっかり聞こえるレベルです、ハイ。
……誰か助けてくれ。
再び天井を仰ぐ。
そんな俺の悲痛なる願いが通じたのか、あるいはテーブルを包む地獄のような空気を察してくれたのか。互いの息苦しさが限界ギリギリとなる絶妙なタイミングで、濃灰色のジレが良く似合う
「あ……来たみたいですよ」
俺と同じく待ち望んだ救い主現るとばかりにぱっと顔を上げ、声に喜色を乗せる彼女に、マスターは静かに笑みを返し、靴音もなく足を止める。
「お待たせいたしました。トラジャカロシのアイスと、モカ・エチオピア・ベレカでございます」
「あ、トラジャカロシは」
彼女はそこで一度言葉を切り、こちらを一瞥してきた。
その瞳が一瞬、大きく丸まる。
「……彼、で」
――あ、そうか。
彼女が置いた一拍の意味を察すると同時に、頭の中を長く苛んでいた不足感が正体を現した。
出会いが出会いだったせいか、俺達は今までこんな基礎的な事を見逃していたのか。
「わぁ……いい匂いです。ね?」
マスターがカウンターへと戻った後、カップに鼻を近づけて少しわざとらしく湯気を香る彼女を見て、こみ上げる笑い一緒に椅子から身を乗り出す。
「石井」
「え?」
同意でも否定でもない俺の返しに、彼女の眼は再び丸くなる。
「石井達也っての。俺」
名前も知らないままじゃ、そりゃ円滑に話せる訳もない。人間関係の基礎だ。
彼女はあの一拍でそれを思い出していたというわけだ。それが証拠に名乗りを訊いた途端、彼女の表情はテーブルに珈琲が運ばれてきた時の何倍も明るくなった。
「美恵です。三吾、美恵」
「ホント、今更だよねぇ」
暫く2人して笑う。さっきまでの取り繕うそれとは違って心地のいい、息を吐く度に心が軽くなる笑いだった。
錆び放題でギシギシ音を立てていた歯車が、油のひと差しによってようやくスムーズに回り出すのを目にしたような安堵と快感。
さっきまでいたずらに緊張を煽るだけだった上品なコーヒーの香りも、控えめなBGMも、店を包むシックな雰囲気も、これからはプラスに働いてくれそうだ。
「んじゃ、遠慮なくいただきます」
「はい。改めてになりますが、本当に助かりました」
氷がグラスを泳ぐ軽く涼やかな音と、カップが
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