『個人的ユートピア』
大講堂から喫煙所まで、屋根のない道を避けて歩く。
学務課を抜け、掲示板を横目に別棟への通路を渡り、購買の角を直角に曲がって、突き当りの階段を再び下る。対角線を描くように中庭を突っ切れば半分以下の時間で辿り着くことは出来るが、わざわざ傘を取り出す手間の方が面倒。その程度の距離だ。
そんな大学敷地の隅は今日も今日とて無人。スタンド式の灰皿を囲むベンチの一角で足を止め、ポケットから煙草を取り出す――前に、ふと手摺の向こうへ目をやってみた。授業の前より幾分か弱まってはいたが、それでも遠景の緑が雨脚に霞み、その色を薄くしている。
長らく続き徐々にその締め付けを増していく嫌煙と禁煙の世相を、不便さひとつでやり過ごしている小さな喫煙所。背負う山が一望出来るロケーション以外に特段利点はないが、俺は入学してすぐにここをお気に入りの場所と決め、長らく愛用していた。
別にここまで歩かなくとも、今しがた通り抜けた購買のすぐ傍にも喫煙所はある。だがあそこは学務課や総合棟から近い事もあって、教授生徒の別なく常に賑っている。というか喧しい。
興味のない話声が延々と耳に入ってくるのは好きではない。大抵下品な大声が絶えず響いていて気が休まらないとあっては、何のための一服かわからなくなる。
そこと比べて正門、講堂、購買、そして食堂からも遠いだけあり、ここは常に人影がまばらだった。俺を含めて煙を吐いているのは多くても精々3,4人くらいなもので、加えて今日みたいな天気でしかも講義の時間とくれば、貸し切り状態であることが
……まぁ、今日はその『殆ど』から外れているわけだけど。
一度懐に煙草を戻し、ベンチの端に備え付けられた自販機の前に立つ。センサーに端末を翳すと、まるで居眠りから覚めたように自販機の照明が明るさを取り戻した。
そこで初めて、肩をすぼめて所在なさげに立っている彼女のほうへと振り返る。
「……なんか飲む?」
「あ、はいっ?!」
さっきと同じ、大仰なリアクション。肩を跳ね上げた彼女は驚きを露わにし、丸みを増した目をあちこちへとやっていた。
まあ、強引に連れ出しておいてここまで黙ってた男が急に振り向けばびっくりもするか。
とはいえ別に意地悪していた訳じゃない。別に歩く途中で話しかけてもよかったんだけど、教授から逃がすやり口がなかば無理矢理になってしまった手前、なんとなく話題を探しあぐねて背中で連れて来る形となってしまっただけだ。
そんな俺に彼女はというと、特に連れ出されたことを非難するでもなく、かといって教授の口撃から逃れられた礼を言ってくるわけでもなく、ただカルガモの子供のようにきょろきょろ辺りを見ながら黙ってついてきた。その間に流れる微妙な空気ときたら、いたたまれなさ山の如しといった所だった。
――がこん。
取り出し口に落ちて来たコーヒーを取りながら、結局いるのかいらんのかの返事もない彼女を見やる。
ここが初めて来た場所だからか、それとも慣れない事の連続だったせいか、ベンチに手を掛ける事も無く立つその姿とは裏腹に視点が定まっていない。絶えずそわそわと周囲を伺うその様子は落ち着かないといよりは、少し怯えていると言った方が近いように思えた。
「……へくちっ」
「へ?」
不意に聞こえた小さなくしゃみに振り返ると、彼女は顔を赤くして口元を手で覆った。カーディガンって言ってもボディラインがくっきり出る程薄い生地だ。そこにこの雨とくれば女の子にはちょっと寒いのかもしれない。
押しつけがましくもならない、丁度いい理由が見つかった。さっき押したボタンより一段下に指を滑らせ、同じ銘柄のホットコーヒーをもう一本手に取って差し出してみる。
「あっ……?」
しかし返ってきた反応といえばその小さな声だけで、あとは延々俺の顔と目の前の缶の間に視線を往復させるだけ。
「……甘い方がよかった?」
気まずい沈黙の後に耐えかねて訊ねてみると、彼女は滅相もないと言った様子で大げさに首と手を横へ振った。
「い、いえ。大丈夫、です。ブラック、よく飲むんで……」
返事は相変わらずたどたどしかったが、こちらに合わせる嘘ではないらしい。
「ありがとう、ございます」
それが証拠にプルタブを開けた彼女は、遠慮がちにだが特段顔色を変える事も無くなく喉へと流し込んでいった。喉を鳴らす度、緊張に縮こまっていた両肩が緩んでいく様を見て、俺も再び煙草を指に挟む。
「座ったら?」
「あ、はい……」
彼女の頭の位置が俺より下がったのを確認してからライターを擦り、一応顔を背けてから山に向けて息を吐いた。たなびく紫煙がやがて勢いを失って、雨の煙と混じって消えていく。
彼女も再び口を閉じ、ゆったりとしたリズムで吐き出される煙の行方を目で追いかける。さっきよりよほど心地のいい静寂がしばらく続いた。
「ふー……」
ちりちりと葉の燃える音をバックに、横に座る彼女へと時折視線をやる。
いつの間にか組んでいたその脚はやや小柄な体躯に比べてすらっと長く、背もたれに頼りきらない姿勢の良さが、腰の細さをより強調していた。それでいてカーディガンの上からでも一目で分かる程に、出る所はきっちりと出ている。
その上にくっきりとした目鼻立ちの小顔が乗っていて、そこにあどけなさはあまり見受けられない。
……詳しくはないけど、アイドルというよりもモデルみたいといった賞賛の方が似合う感じ。華があると言ったところで、誰も異論は唱えないだろう。
どこに出しても――それがたとえ、銀幕や舞台の中心でもだ――恥ずかしくないその外見。だからこそ、今のおどおどとした姿がちょっと不釣り合いに思えた。
それこそ、さっき講堂で俺を動かした視線と悪寒のほうが、彼女の本質に近いのかも知れない――
「あの」
「うぉう」
しまった。じろじろと見過ぎたか……。不意にこちらに上目を向けた彼女に、思わず変な声を返してしまう。気づけば煙草もその身を半分灰に変えており、驚いた拍子に灰がぼろりと落ちていた。
「これって……サボり、ですよね。駄目、なんじゃ……」
「真面目か」
思わず煙を吸い込む息が止まる。どうやら彼女が気にしていたのは俺の視線じゃなく、授業のことらしい。
今時、しかもあの教授の講義にそんな意識を以って望んでいる生徒がいるとは思わなかった。その価値観を持ちながらなんで静かに出来なかったのだろう。
一瞬そんな突っ込みが浮かんだものの……このズレ具合、もしかしたらどこぞの箱入りお嬢様なのかもしれない。改めて見ると、なんか着ている服も派手さはないが高そうに見える。シックってやつ?
「な、なんですか」
「いや別に。ていうか、これくらい普通じゃん?カードさえ出しゃサボりにもなんないし」
「カード?」
「そ」
鸚鵡に返してくる彼女に頷くが、相変わらず要領を得ていないご様子。
「カード……?」
というよりも、俺の言葉の意味自体があまりピンと来ていないようだ。
もしかしてこいつ、去年の授業受けてないのか?
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