『雨の下へ』

「……そこまで私の話はつまらないか?」


 唐突に授業の流れをぶった切った教授が、ゆらりと俺達の方へ向き直る。


「さっきから随分と賑やかだけどね」


 それまで低くダラダラと続いていたなまくらのような声は、一瞬にしてその切れ味を増していた。

 瞬く間に場を支配した剣呑な空気に、学生の息遣いひとつすら消え失せる。水を打ったように静まり返る中、じいさん然とした出で立ちに似合わない鋭い眼光がこちらを射抜いていた。


「す、すみません……」


 彼女はすぐに小さな謝罪を返すが、それが却って仇となったらしい。教授の視線が僅かに下がったのが遠目からでも伺えた。

 元はと言えば退屈な授業のせいだ。俺たち以外にも小さな話し声はあちこちで上がっていた。誰も身を入れて聞いていないというフラストレーションは予め溜まっており、それは全方位に向いてただろう。更に言えば彼女の言葉を拾っていけば他に話し相手がいた事は明白だ。

 それがたまたまいち早く謝罪の声を発した彼女一人に集中したようだ。1人を吊るし上げる方が効果的と悟ったのかもしれない。

 ともあれ哀れな子羊を選び終え、教授は大仰なため息と共に腕を組んで継戦の構えを見せる。


「すぐ謝れるくらいなら、なんで初めから大声を我慢しなかった?君は紛れ込んだ幼稚園児か何か?」


 当事者以外誰しもがいたたまれなさを抱く沈黙の中、外から響く雨音だけが時の止まった部屋に満ちていく。


 ――あーあ、やっちゃった。

 その最中俺はと言えば、弾かれた様に前へと向き直り硬直しているその背中に、憐憫れんびんの視線を向けていた。

 図らずも追及の手を逃れた形となったので、同情の念もある。というかそもそもあの素っ頓狂すっとんきょうな声を引き出したのは誰かと言われれば俺だし、一緒に槍玉に挙げられてしかるべき立場だ。

 だが切っ掛けを待っていたのは彼女だし、こちらは必要最小限まで声を潜めて、極力ばれないように注意を払っていた。それを大仰な声で台無しにしたのは彼女自身の不注意で、つまるところ自業自得。助け舟まで出す義理はない。


「黙っていちゃ何もわからないだろ?口が訊けないのか?いや、それはないよね、私の声だけ聞こえないのかな。器用な耳をしているね君」


 続けざまに放たれる、嫌味の三段撃ち。長篠の戦もびっくりの早構えだ。まぁあれ嘘らしいけど。

 講義もそれだけキビキビやればいいものを。俺はその矢継ぎ早加減から、背中越しの彼女の顔が容易に想像できた。

 今頃表情も頭の中も完全にフリーズしてしまっているんだろう。相手が反撃の素振りを見せないとあれば、そりゃリロードも捗るってもんだ。

 完全に傍観者となり事の成り行きを見守っていると、懐の端末が震えた。どうやら一志からの返信が来たんだろう。


「……もういい。君、学籍番号は?にしておくからもう出ていきなさい」


 お決まりの口上が聞こえる。

 打てども響かない鼓に飽きがきたのか、教授は手打ちに見せかけた最後通牒を投げかけていた。一般教養は基礎と応用、2年でワンセットの講義だ。この言葉が真に意味するところを知らない学生はいないはず。

 さらば、アルレディ同好の士よ。未だ硬直を解かない背中へと惜別の念を送りながら、机の下へと目線を落とす。


「まさか、それも言えないっていうんじゃないだろうね」


 片手で素早く返事を返して元の頬杖スタイルに戻ろうとした時。前の背中が僅かに動き、彼女がこちらへと振り向いた。

 うっすらと涙の滲むその目の奥を見た途端、心臓が大きく跳ねる。

 有り体に言えば、ドキッとした。

 ……だがそれは断じて、整った顔立ちと涙の取り合わせによる色香だったり、窮地のヒロイン救うべしという新たな舞台装置の魅力といったものではない。

 そんな前向きなもんじゃあない。最も近しいものを挙げるとするなら、俺の心を締め上げたのは、だ。


 私はただここの作法を知らぬ故、この局面を抜ける術を知らぬのみ。

 あとは分かるな?


 まるで王かその側近に意を汲めと命じられる下っ端の心地だった。

 形のない強制力と言い換えてもいい。目尻に溜めている涙すら、単にその意思を分かりやすくする為の添え物に過ぎないのかもしれない。

 彼女がこちらを見たのはほんの一瞬だ。妄想と言われればそれまで。

 だがそれなら何故、動揺の極みにいる筈の黒い瞳がのか。

 それを目にした途端、俺にはこの絵面が愚か者の自滅には見えなくなっていた。

 そして答えがどうあれ、ここで何もしないのは後にとって最悪の選択肢である。


「あー、すいませぇーん」


 そんな確証のない確信によって、気付けば立ち上がって空っとぼけた声を出していた。


「……何?」


 すかさず教授が僅かに視線を上に向け、こちらに合わせてくる。

 ……まぁ、どの道動かなかったところで、少なくとも後味の悪さは残るだろう。背筋を走った悪寒の正体は頭の隅に追いやって、この状況を打開する方法に考えを巡らせる。

 教授のやり方を知っていようがいまいが、彼女が促されるままに学生証の番号を告げたらおしまいだ。

 凝った作法を捻り出す時間はない。


「ウンコ、行っていいですか?」

「……は?」


 5秒ほどの間を置いて放った一言に一瞬周囲が騒めき、同時に彼女も再びこちらを向いていた。

 突き刺さる視線が語っている。

 わざわざ今それを申告することはないだろうと。

 というか大学生にもなってウンコかと。

 それは俺も重々思う。そもそもまるきり嘘だし。だがこの間抜け丸出しな物言い以外に、咄嗟に場の空気をまるごと持っていける文句が浮かんで出来なかった。


「君、ふざけているの?」

「ふざけてないです。おかんむりは重々承知なんですけど、ここで撒き散らすよかマシだと思って」

「……ちょうどいい。君、学籍番号は?一緒に出ていきなさい」


 ――あーあ、やっちゃった。

 3分前に浮かべていた憐憫を今度は俺が、それも講堂中から受ける側になった。

 大方、格好つけようとして道連れに欠単という憂き目に遭った間抜けに見えているのだろう。

 ……だが、一流のサボリストを舐めてもらっては困る。


「47E6680の小木信人。こっちは47E3617の、浦川一花です」

 詰まらせない事が疑われないキモだ。よどみなくすらすらと答え、こっちを向いたままぽかんと口を開けている彼女に目で促して立ち上がらせる。

 ……いや何すかその眼は。アンタがやらせたんでしょうが。


「じゃいってきまーす。すぐ戻りまーす」

「戻らんでいい」


 衰えた喉を限界まで張った声を背に受けながら、俺と彼女は講堂のドアを潜った。

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