『シーソー』

 煙草の先端で灰皿のふちを叩き、咥え直す横目で彼女を見やる。霧雨が降り込んで来た訳でもないのに、あごに手を当て下を向くその顔には薄い靄が掛かっているような不透明さを覚えた。


 ――いやいや、んなことあるまいて。

 基礎応用のセットで成り立つ講義を、片方だけ受けられる制度なんて聞いた事も無い。仮に彼女が編入生だとしても、1年と混じって基礎から受ける事になるはずだ。

 そしてあのやり口は教授の常套手段。この講義を受ける資格のある者、つまり基礎の単位を恙無く取れている生徒ならば、あの口車に乗せられたやつがどうなるかを知らないという事はありえない。

 大抵は退出させた直後かその次の授業で、他ならぬ教授自身からそいつらの末路が語られる。愉悦ゆえつの隠しきれていないその語り口が意味するところは『同じ目に遭いたくなければ黙って講義を聴いていろ』という戒めと見せしめだ。


「あのまま馬鹿正直に学籍番号答えてたら、俺達良くてC評価になるとこだったよ。去年嫌程見て来たべ?」


 さらりと嘘を織り交ぜながら、再びそっぽを向いて煙を吐き出す。少しの間を置いて視線を戻すころには、彼女はぱっと顔を上げ――


「そう、でしたね。テスト頑張っても意味なくなっちゃう」


 あっさりと、嘘の網に引っ掛かった。


「ふーん……」


 相槌を返しながら煙草を持つ手で口元を隠し、覚えた僅かな驚きを表に出さないように取り繕う。

 生徒のひとりを名指しで立たせ吊るし上げるあの教授が、そんな甘いペナルティで済ませるわけがないだろう。

 ともあれこれで、彼女が去年基礎を履修していない事はほぼ確実となった。口の中で煙の余韻にコーヒーの香りを混ぜながら、今度は悟られないように横目の端で彼女を捉えてみる。

 慣れた様子で組む足と、片手で底を握るアルミ缶。だがその表情は相変わらずどこか不安そうで、せっかくのロケーションにも完全にはリラックスされていないご様子だった。

 指先にじんわり熱が伝わって来る。いつの間にか随分短くなった煙草を最後にひと吸いしながら、頭の中で出ていく直前の一幕を思い返した。

 あの時も今も、どちらも演じているような不自然さは見受けられない。いったいどちらが彼女のとって本当の顔なのか。

 いや、そもそもなぜ、そんな極端な二面性を備えているのか。

 今となっては彼女に対して覚えた悪寒の不気味さより、散りばめられた謎と出で立ちの歪さによる興味のほうが勝り始めていた。

 少なくとも今日くらいは、貸しきりの喫煙所という心地良さは捨ててもいいかも。そんな事を思いながら吸い終えた煙草を灰皿へと落とす。


「あっ、でも……後からばれたりしたら……」


 底に溜まる水に火種が触れ、しゅん鳴いて熱と色を失う。短いその断末魔が不安を呼びしたのか、彼女はコーヒーから口を離し、再び顔を曇らせた。


「あーそれは大丈夫」


 あっけらかんと言い放ち、驚いた顔で見上げて来る彼女にへらりと笑いを返す。

 座る席も生徒も決まった20人そこらの教室で行われる高校の授業とは訳が違う。まして一般教養は、複数の学部から多くの生徒が講義を受けに来る。その顔と名前を全て一致させている教授なんて、まず存在しない。

 答えさせた学籍番号を講義の後で機械的に落第リストへと放り込んでいるだけだ。確証はないが、実績はある。


「問題なく単位取れたし、去年」


 俺だけじゃなく、一志のやつも単位を落とさなかった……というよりこのサボり方を見つけ出したのはあいつで、俺はコツを教えてもらっただけに過ぎない。

 元々違う講義からあの教授のやり口を分析したらしいので、今年はそちらの応用でも受けているんだろう。

 目の前にいるのがこれ以上ない物証だと分かったおかげか、彼女の顔からは不安の色が潜まり、淡いピンク色をした薄い口の端が緩む。

 ……なんというか、そんな僅かな所作すら様になっているというか、画になるというか。


「あの」


 んで、曇りの取れたそんなお顔が突然こっちに向けば、誰だってドキッとぐらいはしますよそりゃあ。


「なんぞ?」


 取り落しそうになった缶を慌てて握り直しながら勤めて平静を装い、気のない振りの返事で狼狽えているダサさを覆い隠す。


「具体的には、どういう風に?」


 またも彼女の瞳が変化を見せる。見上げて来る視線は興味に輝きながらも、口調の固さに聞き逃すまいとする真剣さが伺えた。

 教えを請いたいということは、今後に活かすつもりだろうか。少なくとも俺より頭良さそうだし、彼女もまたあの講義に飽き飽きしているのかもしれない。

 ……なら、なんであそこまで几帳面にノート取ってたんだ?


「サボりたいの?」

「そういうわけじゃないですけど、その……」


 率直に訊ねてみるも、彼女は明後日に目を向けながら言葉を濁す。別に学生同士ながら怠惰たいだを隠す事も無いだろうに、何か理由でもあるのか。

 暫く待ってみるが、明確な回答は無し。またも増えた謎は一旦置いておくしかなさそうだ。


「……もう一本くらいいけるかな。戻る前に」


 時計に目をやりながら缶を揺らしてコーヒーの残りを測り、煙草の箱を取り出す。そんな俺に彼女はきょとんと丸くした目を向けてきた。


「戻る……んですか?」


 ライターを擦りながら頷く。

 一志曰く、糾弾に遭った生徒の単位を実際に落とす仕掛けは、実は吊るし上げの直後にある。


「あの教授、受け持ってるどの講義でも出席カード2回配るんだ。始まりにはピンク、終わる10分前に黄緑って具合に、わざわざ色が違う奴」

「ああ、ということですか」


 ふむと鼻を鳴らす彼女に、勝手に目が見開いていく。

 それはちょっと勿体ぶった種明かし。それもまだ序章に過ぎなかった。だが即座に返された数段飛ばしの理解に、今度は俺が驚く番となった。


「ピンクと黄緑、揃っていれば出席。黄緑だけならば遅刻。ピンクだけならば中抜けあるいは早退。いずれもやむを得ない事情というケースもありますから、講義のあとピンクのカードだけ提出している生徒の中から、自分が答えさせた学籍番号を探し、処罰を下すと」


 口早に続く彼女の言葉は、それが早合点でない事を裏打ちしていた。

 その慧眼もさることながら、更に驚かされたのはその喋り方だ。どこかふわふわとしていた今までの印象から一転、熟読済みのレポートでも音読しているかのようなよどみ無いその調子は、どこか近寄りがたさすら感じさせる硬質さを主張していた。

 ――二面性。復唱する心の中で、その単語は重さを増していく。


「まぁ、そんなとこ……あの人数の申し開きを一々聞いてたらキリがないってのもあるだろうけど」

「あるいは、実際に連絡を受ける学務課の負担を考えているのかもしれません」

「言われてみれば、確かに」


 関心ついでに一度下された欠単という裁定が覆った事は殆ど無いという事実を付け加えると、彼女は全てを得心して大きく頷いた。


「お歳のせいで視力と、あるいは記憶力にも自信を無くしているからこその手法でしょうが……仕組みとしては結構杜撰ずさんですね」


 俺が一志の分析を始めて聞いた時は、手間と効率のバランスをよく考えた手だと感心したものだ。しかし言葉の結びから察するに、彼女には既にそのシステムの穴まで見えているらしい。

 ――そして恐らく、間違っていないだろう。

 少ない点と点を繋げてあっさり線とし、さらにその先まで伸ばす思考の鋭さこそ、その顔立ちには良く似合わっている。

 そう思ったのは何も見た目とのマッチングだけじゃない。彼女が初めに口にした『答え合わせの防止』というワード。それこそ彼女が全て見抜いているという根拠であり、俺が迫る教授へと適当に受け答えした理由に他ならなかった。

 火急の連絡が端末に来てしまったり、本当にトイレに行きたかったり……中抜けしている人間はなにも俺達だけとは限らない。事実さっきの講義中にも何度かドアの開け閉めが聞こえていた。

 そこに該当する者のいない出鱈目でたらめを、疑われない口調で返されたとあっては、教授は被疑者を絞り切れず、せっかく吊るし上げた学生も単なる中抜けとして処理するしかなくなる。疑わしきは罰せずという奴だ。

 そして逆説的にはなるが、このシステムを採用している事こそ、教授の視力が講堂の隅々まで見渡せないほど衰えている証でもあった。


「人同士の知恵比べである以上、完璧なシステムなんて生まれっこないべ」

「もし私なら、顔写真の撮影と学生証の提示くらいは求めますが」

「いや警察じゃないんだから……」


 そんなことしたらプライバシーの侵害云々で、下手すりゃ教授が炎上するだろう。大学生にもなって何かあったら親が怒鳴り込んでくる……なんてことは意外と多いらしい。理解に苦しむけど。


「……第一たかが一般教養だし、どっかで全員が真面目に受けちゃくれないって諦めがあるのかもよ」


 一志からの受け売り文句も底が見えて来た。俺は話を締めに掛かり、長い間指の間で出番を待っていた煙草に火を点けようとポケットに左手を突っ込む。


「そういう、ものですか……」

「……?」


 それは瞬きの間に見逃しそうな程短かったが、一瞬彼女の顔に苦みが走った、ように見えた。

 教授というのはある程度人気商売な側面がある。自分の講義を受ける学生の数は自らの評価に直結する。つまるところ飴と鞭の使い分けが肝要なんだ。まして必修でもない講義、過剰に締め付けを強くすれば悪評が広まり専攻する学生は減って、結果的には自分の首を絞めることになる。一志の蘊蓄うんちくはそう締められていた。

 それが理解できなかったからこその表情だろうか?だがさっきの聡明さを見る以上、それが見通せない彼女ではなさそうだが。


「……ま、運が良かったね。それ知らないのに後ろ座っててさ」


 ――あり得ない事だけどな。

 浮かんだ続きの文句を口に出し、一気に懐へと切り込もうか。

 僅かに考えているうちに彼女は突然ベンチから立ち上がり、靴音をふたつ鳴らして含みを持った笑みと共に俺の前に立った。


「それと、教授がアルレディを知らなかったことも、ですね」


 懐に切り込まれたのは俺の方だった。

 パーソナルスペースギリ手前、殆ど顎の真下から、彼女は上目遣いを俺に向けて来る。


「な、なに……?」


 ふわりと香った甘い臭いに、出した声は上擦っていた。視線を合わす事も逸らすことも出来ないまま明らか挙動不審な俺に向かって、彼女は返事の代わりに指を伸ばす。


「これ、ファーストライブの限定品ですよね?」


 そうして指し示して来たのは、左手の先に握られているライターだった。

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